嘉数研二 INTERVIEW
内科医の父の姿を見ていて「医者は大変な仕事」というイメージがあった
-- 現役の時は医師として活躍されていましたが、世の中にある多くの仕事の中で、医師という仕事に就いた経緯などを教えてください。
嘉数 単純に親が医者だったからですね。でも若い頃は絵を描くのが好きで、自分が描いた絵が教科書に採用されることもあったり、高校時代は美術部の部長として美術展で入賞したりしていたので、一時本気で画家になりたいと思っていた時期もあったんですが、もし才能があったとしても画家として生活するのはとても難しいと思ったんです。
-- なるほど。とはいえ、医者になるのも簡単ではないと思います。相当な努力が必要ですし、やはり自分で本気でなりたいと思わなければなれない職業だと思うのですが。
嘉数 そうですね。確かに誰もがなれるものではなくて、やはりそれなりの勉強はしなければならなかったです。それに父の姿を見ていて、職業として大変な仕事というイメージもありました。夜中に電話がかかってきて眠くても往診に行かなければいけないこともありましたし、どんなに熱心に治療しても患者さんがなかなかよくならないとか、100%思い通りにいく職業ではありません。だけれども、困っている人の助けになるし、感謝され、尊敬もされる仕事なので、やりがいのある仕事ではあるなと思っていました。
-- なぜ先代と同じ内科小児科ではなく、整形外科を選んだのですか?
嘉数 内科や産婦人科など色々ありますが、内科は非常に診る範囲が広く非常に難しいと思ったんです。風邪も診る、胃腸、肺…つまり全身ですから。あと昔、町のクリニックと言えば大体は内科小児科で、非常に多かった。そもそも日本の医療は内科から始まっているんです。外科は非常に少なかった。整形外科っていうのは、例えば打撲とか、骨が折れたとか、外から見てわかりやすいと思ったのです。内科や婦人科は、複雑でわかりにくい。しかも外科に比べて夜中に電話がかかってきて何度も起こされることが多い…。これは私にはできないと思いました。ですので、当時まだ少なくて、且つニーズが増えている整形外科を選んだわけです。
-- 勤務医時代と開業後では、大変さが違ってくると思いますが…
嘉数 大学病院に勤務していた時は命に関わるような患者さんに対応することが多かったです。赤ちゃんなんかの場合、死にそうになって生まれたら大急ぎで必至で助けてあげなきゃならないってこともあるのでそれは非常に大変でした。それに比べたら開業してからは心の底から大変だと思うことは少なくなりました。逆に言うと大変だとか言ってられない…。
医療は一人でやるわけじゃない「チーム」の心通うコミュニケーションが大事
-- 尊敬する人の言葉で深く心に刻んでいるものはありますか?座右の銘的な。
嘉数 言葉というより、尊敬する医者の姿勢ですが、一つは「学問に真摯である」ということと「人の生死に真剣に向き合って一生懸命やる」ということ。そういう姿勢がベースにあってその方の苦しみを少しでも和らげてあげること。その手助けをするということが大事です。それをしないと医者としての存在意義がないと思います。頭の中からつま先まで、何を苦しくて何を言いたくて、そしてどうしたらこの人が一番助かるのかな、安心するのかな、ということをまず考える。そのためにはまず話を十分聞くということ。じっくり聞く。それに時間を3倍ぐらい費やす必要があります。
-- 勤務時代も開業後も周りにたくさんの仲間がいたと思うのですが、仲間との間で大事にしてきたことは何ですか?
嘉数 お互いに意思の疎通を図ることです。余計なこと言って嫌な思いさせたりしては良くありません。医療は1人でやるわけじゃない、チームワークでやるわけですから。心が通じ合いながらやるということはとても重要です。若い頃は、ついカッとなって強く言ってしまったり、逆に怒られたり何か言われることによって、仕事も手につかなくなることもあるわけです。そうならないようにしなければなりません。
-- 天変地異が起きても絶対変えたくないポリシーみたいなのありますか?
嘉数 自分がその病気を直せるかどうか、自分の力が及ぶかどうか見極めること。自分でわからないこと、不可能なことは最初からできませんと言う。自分の能力以上のことや、専門外のことなどは、専門的なドクターに任せる。やれないことは速やかにやれる人に紹介する。患者さんにとって一番いい方法をとる。
-- なるほど。わかりました。この仕事を次の世代、医療の分野で働いてる若い人たちにどのように伝えていきたいか。アドバイスなどあれば。
嘉数 お互い人間ですから、医者が上で患者さんが下とかじゃなくて、人間同士対等の立場でお互いを理解し合って、その病気と向き合って、解決していく、ということですかね。相手が子供の場合はそういうわけにはいかないですけどね。人によって性格も理解力も違う。その辺をちゃんと見極めて、了解をして、進めるということは当然のことです。でも医者と患者さんでは立場の違いはあります。だから自分の立場っていうものをよく理解した上でお互いに話をして診察と治療を進めていく、それが大切。
-- どんな家庭環境で育ちましたか?子供の頃、どんな子供でしたか?
嘉数 優しかったですよ。素直でしたね。親の言うことをよく聞いて家の中では良い子どもだったと思います。それに引き換え、学校に行くと喧嘩ばっかりしてましたね。小学校のときは、1ヶ月に一回ぐらいは殴り合いの喧嘩したかな。けっこう強かったんです。でも中学生になってからは一度もやらなかったです。
-- ちなみに、人として許せない言動とか嫌いなタイプってどんなタイプですか?
嘉数 弱い者いじめをする人が大嫌いですね。弱い人はやられっぱなしになってる人が多いんです。そういうの見てると、正義感が燃えてきて、何とかしなくちゃいけないと思ったりする方です。
今、理想の未来になっている。生まれ変わってもまた医者になりたい
-- 今現在の課題、お困りごとなどがあれば。
嘉数 ずいぶん年をとってしまったなと(笑)。年齢による衰えというものは日に日に感じます。体力的にも能力的にも、記憶力も。それが一番のお困りごと。
-- 奥様の孝子さんとはなぜ結婚したんですか?
嘉数 27歳の時に年齢的にそろそろと。相手を選んだ理由は性格がよかったからです。非常に優しい人で、きつい言葉で人を責めたり、文句を言ったりとかはしない人だった。やっぱり「優しさ」が一番ですね。
--人生の中で誇らしく思うことは何ですか?
嘉数 あまり自分のことを「誇らしい」とは思わないです。仕事にしても、趣味にしても。趣味は沢山あって、「絵」も「錦鯉」も受賞したりしていますが、「嬉しい」というだけで、人に誇るものではないんです。錦鯉の水、エサ、イカリ虫の研究など、やってて面白いから夢中になっていただけなんです。自分のためにやっているだけなんですよね。
--人生100年です。100歳までの間にやりたいこと。具体的な計画などあればお話しください。
嘉数 運動して体を健康に保ちたいです。それで健康をキープして絵を描きたいですね。
--自分にとっての理想の未来をおしえてください。
嘉数 もう理想の未来になってる。今がとても幸せです。子どもを3人も得ることができて、文句のつけようがないね。なかなか良い人生であった。欲を言えばこれ以上老化したくないかな(笑)。
--生まれ変わったら何をしますか
嘉数 もう一度医者になります。
おまけ
◆犬のこと
犬は大好きで昔から飼っていましたね。エスっていうどこにでもいる普通の雑種を飼っていました。3~4代ぐらい良く似た犬を飼いましたかね。名前は全部「エス」。開業してからはブルドッグを飼いました。愛らしく、温厚でかわいい犬です。
◆車のこと
車も好きで日産の「スカイライン・ケンメリ」っていうのに乗ってたんです。結婚した時に家内のお母さんにお祝いをいただいて、それで買ったんです。その頃の日産は日本でナンバーワンでしたからね。その後も3台ぐらいずっとスカイライン。その後バブルの時に医者仲間があまりにもすすめるので開業して、子供たちも大学に入ってある程度ゆとりが出た時「ポルシェ」を買いましたね。美しいフォルムの車でしたが、しばらく運転しないとすぐにバッテリーがあがったり、タイヤも高価で色々手間がかかる車でした。歳とってからはセルシオ。静かで快適な車です。最後はレクサス。でもレクサスは買ってすぐに免許も返上して今は運転していません。
◆パソコンのこと
昔はマイコンって言って88(ハチハチ)から始めましたね。当時世間で流行り始めたんですよね。でもまだ周りにはやってる人は少なかったです。医者の先輩で、すごく詳しくて医者でありながらマイコンも組み立てちゃう人がいて、本当は漢方薬を勉強しようと思っていたのですが「先生、これから新しいことを始めるなら漢方薬より、コンピューターやった方がいいよ」って言われたのがきっかけですね。流行りものには飛びつく性格なんです。目的はパソコン通信の情報交換。その後プリンターを導入して職員の会計処理にも使うようにしたんだよね。家内の職員の給与計算も楽になって喜ばれました。一時期は「宮城県医師会」のホームページも作りました。それからず~っとパソコンやってますね。自分の病院のホームページも作って掲示板で患者さんの悩みに答えたり…。メーリングリストを活用して情報共有したり、フル活用していましたね。アクセス解析まではしてはいなかったけど、全国の友達とも繋がることも出来ました。
◆宮城県医師会長のこと
震災の後ぐらいからかな。会長になって患者さんがだいぶ減りましたね(笑)。前会長から指名されて、3期6年やりました。やりがいも感じていたし、毎日のように医師会に顔を出して、長男も医者になって後継ぎの心配もなくなったっていうこともあって、医師会の仕事は真面目にやっていました。加えて、親しい友人と一緒に仙台市茂庭台に建てた「茂庭台老人豊齢ホーム」の100人の入所者のADL評価システムとその評価プログラムを構築することが出来、仙台市から学術奨励賞を受賞しました。東日本大震災の時は医療分野での被害状況を調査したり、住民の健康状態に応じた必要な治療や、回復状況を調査してデータ化しました。