(詩)白石本通

ワイドパンツを翻し風が吹いている
彼女の髪の先がふわりと肩を離れ
互いがじゃれるように舞いはじめる
三十分前に洗った髪から
水分にしがみついた香料が離れ
風下へと儚い旅に出る

時を同じくして
パン工場の機械式のかまどから
小麦やら水分やら熱やらに見送られて
小さくわずかな粒子が
母なる酵母からのなごりを湛えて
うわついたように飛び立つ

粒子はロバの彫像の鼻先をかすめ
空気と戯れながら
彼女の鼻腔にそっと降りたつ
彼女は絶えざる日頃の営みの
そのひとつとして一定量の息を吸う

粒子はくるくると縦回転しながら
鼻腔の奥へノックせずに立ち入る
粘膜にやわらかくつつまれた神経が
両手を広げて粒子を迎えいれる
焼きたてのパンのように熱い抱擁が
若いシナプスたちの赤いほっぺを
あたたかくつっついていく

こうばしい香りがふいに横隔膜を
大きく躍らせ肺をふくらませる
パン工場生まれの粒子たちが
国道沿いのぬるい風にのって
こぞって鼻腔へと駆けこんでいく
やわらかなパルスが編んだ多幸感は
彼女の頭蓋骨の中をなみなみと満たし
頬の奥で筋肉が音もなく伸びをする

彼女が白いロバの前を横切ったとき
ほどけゆく水の分子から手を離した
香料のほんのわずかな粒子が
彼女とは小学時代に友人だった
女の子の鼻腔にたどり着く

そんな鼻の奥からの刺激とは全く関係なく
女の子は白いロバを見て
幼い頃に友人だった子と一緒に
夕焼けの国道沿いを歩いたことを
それとなく思い出していた
シャンプーの香りの粒子を風に放ちつつ
前を歩く女子がその子であることには
まだ気づいていない

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