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愛猫・愛犬『看取る』って安易に言うのやめてもらっていいですか?

何とも挑発的なタイトルにしてしまいました。
noteにも「看取り」についての記事がいくつかある様ですが、どなたかの記事を批判する意図は全くないことをはじめに記しておきます。

そもそもnoteに「看取り」についての記事があることは知りつつも、一記事たりとも読んでいませんしね。

なにせ私は「読むのが嫌いマン」なので…タイトルを読むのが限界です。

自分が書いた記事だって、推敲って言うんですか? 書いた文章のチェックみたいなこと、それすら苦痛だったりするので。しかも私はまあまあな長文厨なので尚更…

まあ要はただ単に「○○っていいですか?」って言葉を使いたかっただけです。はい。

さて言い訳はこの辺にして、これまで現在の愛猫ゲンの闘病に関する記事をいくつか書きましたが本記事はそのスピンオフ的なものになります。

50年もの間、猫と暮らしてきた私ですが本格的な介護・看取りが必要になったのは現在のゲンが初めてです。

その中で気付いたことや考えたこと・感じたことを本記事を通して発信するというよりも、自分自身への言い聞かせ戒めという意味を込めて書きたいと思います。

ちなみに私のページのヘッダー画像に「魂が揺さぶられ」云々のキザなセリフがありますがあれも自分への言い聞かせです。

早い話が座右の銘的なものですね。心が折れそうな時にアレを見て自分を奮い立たせるという訳です。

元ネタはブルース・スプリングスティーンさんの何かの歌詞に「魂は揺さぶられない」的なフレーズが登場する曲があったかと思うのですがどうしても見つかりません。

自分で脳内変換したのかな? ま、モロパクではありませんがインスパイアと言うほどでもない、半パクみたいなもんです。

すみません。例によって冒頭から盛大に脱線してしまいました。

で、本記事のタイトルにある「看取り」ですが、それは猫に限定せず犬ほかのペット全般でいえることかな?と考えました。

もちろんペットだけでなく人間にも当てはまる部分があるかとは思います。

しかし、そこまで含めてしまうと本記事が更なる脱線という惨劇に見舞われることは想像に難くないので、今回はペット、特に犬猫を想定したものにいたします。他の動物のことはよく分からないので。

さてさて今度こそ本記事のタイトルにある「看取り」ついてですが、ペットの看取りでありがちなセリフとして、

「私はこの子が亡くなるまで、飼い主として責任を持って看取ります」があります。

素晴らしい!まさに飼い主の鑑ですね。こんな私ですが私もその様に考えています。

しかし、自分が言っているそのセリフは一体何を意味しているのか? をきちんと自分と向き合って理解しておかなければならないとも思っています。

そうでないと言葉だけがご立派に踊っていて、とても空虚に思えてくるからです。

私は、口だけ・言うだけの口先番長・言うだけ将軍にはなりたくありませんし、直面している現実から目をそらし、ソフトな言葉使いで自分を欺き、自分を慰める様な真似はしたくないのです。

飼い主のそういう態度はペットが被害を被るだけです。

マガジン「ねこのおはなし」の記事中にもところどころで書きましたが、

衰弱死とは餓死・飢え死にを意味し、その衰弱していく様をただ指をくわえて見つめているというのは看取りではなく見殺しであると私は考えています。

「衰弱して亡くなるまで最期まで看取ります」これはひとつ間違えると、「餓死・飢え死にするまで見殺しにします」ということになりかねません。

もちろん私は獣医師でも魔法使いでもありませんので、私が出来ることには限りがあります。

この辺は人それぞれで事情が異なることは致し方ないことです。金銭面・環境面・その子の状態等、十匹十色なので、飼い主が出来ることの限界もおのずと十人十色になってしまうのは当然のことです。

獣医さんにおいても、治療的にもはや何ともしようがない状況も多々あることでしょう。また、その方針や能力も各々で異なってしまうのは当然のことです。

しかもぶっちゃけ、お世話になっている獣医さんとはいえ所詮は他人様です。ましてその子の治療だけに注力するという訳にもいきません。

ですので私は全てを獣医さんに丸投げじみた事はしない様に気を付けています。

私が言っている丸投げとはある種の決断は含まれていません。獣医さんへ何もかもを丸投げしたところで受け止めてくれる訳がありません。

見通しや選択肢の提示は出来ますが、あくまでも最終決断するのは「飼い主さん、あなたです! あなた次第です!」と予防線を張って来ることでしょう。

つまり私はあくまでも獣医さんには自分では出来ないこと、判断・検査・分析・外科的な事柄等々、自分では如何ともしがたいことを担ってもらうのだと考えています。

逆に言えば、自分で出来ることは面倒くさがらずに全部やる、やり通す、そして決断するってことです。当たり前のことですね。

「もうかなり衰弱してるんでぇー、あとはそっと見守ってあげたいんでぇー」という気持ちは分かりますがペット本人にしてみたらもしかしたらむごい仕打ちかも知れません。

口のきけない、言葉で表現できないペット達は飼い主のそういった生温かい眼差しを切なく感じているかも知れません。

おいおい、なに泣きながら声掛けしてんだよ?
他にまだやれることあんだろ? こっちは口がきけないんだから察しろや! まったくがっかりだぜ。てか、 諦めんの早くね?

こんなことをペットが考えているとは思いませんが、そこをあえてきっと考えているに違いないってことで行動する必要はあるかなとは思います。

要は飼い主が絶望した瞬間に看取りというより見殺しに入るってことです。あなたは愛するペットを見殺しに出来ますか?って話です。

だからといってとことん延命すべきだなんて言っている訳ではありません。

飼い主がそのペットが生存している事に意味を見い出せるかどうかです。なるべくなら生きる意味を見い出してあげたいですがそう簡単ではありません。

例えば四六時中、痛がっている・苦しがっている・ただ呼吸しているだけの植物状態等々の場合その子に生きる意味を見い出すのは困難です。

無理やり生かしてもその子にただ生き地獄を味あわせるだけですからね。それでは本末転倒になってしまいます。

つまりは、
見殺しにもしなければ、決して生き地獄にもさせないと心に固く誓うことがとても大切なのだと思います。

別の言い方をすれば、自分自身に完璧を求めるということです。無論、完璧を求めたからといって完璧に出来るとは限りません。おそらく完璧には出来ないでしょう。

しかし自分自身に完璧を求めれば完璧に近づくことは間違いありません。逆に自分自身に完璧を求めなければ完璧とはほど遠い結果になるでしょう。

ここで私が言うところの完璧とは、
そのペットのQOLを保つことを最優先にしながら共に病気と闘い、そして穏やかで安らかな最期を迎えさせてあげるということです。

無論、その穏やかで安らかな最期に安楽死も選択肢の一つとして入れておくことはいうまでもありません。

では飼い主として完璧であるためにはどうすれば良いのでしょう?

私が思うにまずは反省と自問(自分への疑い)を徹底的に繰り返すことだと思います。そう、どうってことないことです。

私が敬愛するブルース・スプリングスティーンさんの名曲「ザ・リバー」の歌詞にこんな一節があります。アルバム感想ではないのでごく簡単に書きますが、

「彼女の夢を叶えてやれなかった俺の愛は偽りだったのか?」

というものです。

彼女の夢とは「平凡でささやかな暮らし」の様ですが、主人公は不況により十分な収入を得られていなく、妻に苦労を掛けていることに対して申し訳なく思っているという…

そして「俺の愛は偽りだったのか?」と自問する主人公。

反省と自責。ビミョーにシンクロする二つの言葉。

一般に自分を責めることは良くないとされていますが、深く反省すると自分を責めることは避けられません。

じゃあ、あまり深くは反省すべきではないかというと私は必ずしもそうではないと思っています。

本記事の主題はペットの看取りです。

ペットは家族ですよね? その家族が死んでしまいそうなのですから、ここは身や心をすり減らしてでも尽くすべき局面であると思うからです。

ペットの苦しみを自分が変わってあげることは出来ませんが、同じくらい自分も苦しみたいというのが私の現在の心境です。

と言ったところでゲンの癌や腎不全の苦しみには到底届きません。

だとしたら尚更、完璧という十字架を自分の胸に刻みこみ、反省と自責をとことん繰り返すしかないって考えです。

私は今、ここが踏ん張りどころだと思ってゲンと向き合っています。

寝不足だの、食事・投薬に苦慮だの、精神的にやられてきた、ノイローゼっぽい、オレのQOLはどうしてくれんねん? などと言っている場合じゃありません。

そんなもん、ゲンの癌や腎不全の苦しみに比べればたかが知れています。

なんか話が例によってダラダラしてきたのでこの辺で終わりにしたいと思います。

あーでも、だからといって続きは【後編】で!ということではありませんので。

まとめますと、
「看取り」という優しげな言葉は、ひとつ間違えると「見殺し」になりかねないということですね。

「看取りの段階なんでぇー」と努力不足で体のいい放置プレイ、最悪です。

私が考える「看取り」とは、
「見殺しにもしなければ、決して生き地獄にもさせない」ということです。

と同時に「看取り」とは一つ一つをあきらめて行く作業だとも思っています。

最近愛猫ゲンは扁平上皮癌の腫瘍による膿で右目が覆われてしまいました。失明も時間の問題の様です。その他、腎臓・膀胱・ふらつきと容態は悪化していくばかりです。

もちろん投薬は続けていますが、あまりにも嫌がる様になったら投薬もやめるべきだなとも考えています。

「見殺しにもしなければ、生き地獄にも決してさせない」などと力強く言い放つも、様々な事柄を日々少しづつ諦めて行かざるを得ないというジレンマ。

もしかしたら少しづつ諦めて行く作業が「看取り」の本質なのかも知れません。あくまでも少しづつです。

もう勘弁してほしいわ、もう疲れた…これは少しづつとは言い難いですね。

私は見殺しにも生き地獄にもさせないためにも諦めるのは少しづつにして残された時間をゲンと共に過ごしていく決意です。

諦めたら見殺しに、諦めないと生き地獄に…
看取りとはとても難しい作業であることを痛感している今日この頃です。

以上、愛猫・愛犬『看取る』って安易に言うのやめてもらっていいですか?でした。最後までお読み頂きありがとうございました。


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