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ある老夫婦と
あるターミナル駅で、ある日僕は、末娘と2人でバスを待っていた。
ベンチに腰掛けてあれこれ話していると、明らかに人生の大先輩とおぼしきご夫婦がやって来た。
ベンチに空きはない。当たり前だが僕と娘は席を譲った。
ご婦人は丁寧な口調で謝意を伝えてくれ、男性の方に着席をうながす。
頑固そうな顔つきの男性は厳然たる決意を滲ませるように、前だけを向いてこちらは見ない。
ご婦人は「お父さん、せっかくああおっしゃってくださってるのに、早く座りなさいよ」と言いながら男性にうながす。
彼は「うるさい!黙っとけ」と言い放ち、あとはただ歯を食いしばり、僕の方は見ないが、なぜそんな余計なことをしたのだ、大きなお世話だ。ほっといてくれ、と言いたそうな表情で、ひたすら前方だけを見ていた。
やがて来たバスは、僕と娘が乗る予定のものとは違う路線のものだった。一方それは、このご夫婦が乗るべき路線だったようだ。
立ち上がったご婦人は僕らに対して再び丁寧に挨拶をしてくれ、バスに乗り込んでいった。
頑固クソ親父の方は、こちらになんの一瞥もくれずに、相変わらず歯を食いしばるようにして前だけを見てバスに乗り込んでいった。
あのあと奥さんがあのクソ親父に叱られていたのだとしたら、つくづく申し訳ないことをした。
一方で僕にはわかった。
あの奥さんが、そういったことへの対処を十分に心得ているであろうことが。
そのような、いかにも昭和な夫婦関係が正しいかどうか、そんなことを評価する立場には僕はいない。
客観的に見ればどう考えても間違っているだろう。
しかしながら、あの夫婦の歴史や、あの男の人生への矜持や、奥さんの気持ち、クソ夫への愛、幸せの尺度などは僕にはわからない。
だから僕は、この出来事をあれこれ評価するつもりはない。
一つだけ言えることは、僕は僕なりの善意によって、ある老いた男性の何かしらの部分を傷つけてしまい、損なったのだろうということだ。
僕は娘に伝えた。
こういうこともあるよな、と。
でも、こういう出来事とは無関係に、おまえは今までと同じように、おまえらしく人に対して自分のできることをしてほしい、そのためには笑え。
おまえの笑った顔は最高にかわいい、と。