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向こうからくる女

40代になりたてのころ、サラリーマン生活の中で僕がまだ、わずかながらも自分の存在意義を実感できていた時期のことだった。

朝の三鷹駅で、三鷹始発の総武線に並ぶ列にイヤイヤながら立ちすくんでいると、必ず隣の列に並ぶ女性がいた。僕は彼女に興味を持った。毎日同じ時間に同じ位置にいる人だから。着ているものやヘアスタイルなんて一切覚えていない。だが、僕はその人の存在をはっきりと意識していた。その人をかすかに視界の片隅で見た感じでは、はるか昔に好きだった人に似ていたからだ。でしゃばりすぎない、そっと吹いていつの間にかどこかに行ってしまうそよ風のような雰囲気が似ていた。けれども、そのころすでに、人の顔を凝視することなど何かとはばかられる時代になっていたから、僕は常に視界の片隅だけでその人を見て、はるか昔のときに思いを馳せていた。

せっかく黄色くて可愛らしい車体であるのに、絶望的な顔をした絶望的な勤め人たちを載せて総武線は走る。そしてやがて四ツ谷に着くのだ。
僕は重い身体を引きずって丸の内線に乗り換える。その女性も常に同じだった。必ず遠目に見たところに彼女はいて、人混みの向こうで結局は僕と同じ赤い地下鉄に乗り込んでいく。

当時の会社の最寄駅は虎ノ門だったが、二駅手前の赤坂見附で下車して会社まで歩くのが僕の日課だった。僕が下車するころ、彼女はまだ赤い地下鉄の吊革につかまっている。

下車してからの道のりはまるで、というか明らかに、学生時代というモラトリアムな時期を過ごすのと同じような、死刑台に向かう階段のような時間だった。せめてその時間は好きなビートルズでも聴きながら、僕はそのモラトリアムな時間を死刑台に向かってとぼとぼと歩くのだった。

するといったいどうしたわけなのか、溜池山王駅との中間地点あたりに近づくころに、あの彼女が向こうから歩いてくるのだった。毎日毎日、ほんとに毎日のことだ。

なぜだ。

人の常として、自分の職場が特定の二つの駅の中間にあるのなら、手前で降りて歩くのではないのだろうか。しかし彼女は毎朝向こうからやってきて僕とすれ違う。むろん顔など合わせるわけもない。

いつか彼女に話しかけて、「何で溜池山王で降りてこっちに歩いて戻ってくるの?」と問うてみたかった。ほんとにそんな衝動に駆られたものだ。

あれから僕は、自分の存在意義を確立したと思った途端に喪失して、また立て直したと思うと再び喪失した。でも今思う。結局、あの女性の不思議な行動は彼女にとっては理にかなったものであって、その理由は彼女だけのものだと。だからこの自分だっておそらく、自分の意思で自分の人生を生きているのだろうな、などと。

あの時の彼女の行動も、僕がモラトリアムな時間を引きずりながら歩くのも、結局は同じなのかもしれない。それぞれがそれぞれの理由で歩いているだけなのだ。きっと。

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