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話す内容と、話す行為それ自体② 「SNSでよく見る論争」

前回「話す内容と、話す行為それ自体①」の続き。

「その発話で何をしようとしているのか」
この視点が抜けると、発話の内容・意味に捉われて堂々巡りになってしまうことがある。

例えば、SNSやコメント欄で良く見かける。
「これは〇〇だ」という発言があるとする。
「いや、〇〇というのはただの決めつけだ」
と「論争」になる。果てには、幼稚な言い合いになったりしている。

そもそも、その人が「これは〇〇だ」という発言をそのコメント欄でしたのはどういうことだろう、という視点。
「これは〇〇だ」とその人が思うのはそれとして、なぜその"時"に、その"場"で、これは〇〇だ」という"言い方"になったのか。

noteでよく見かけるわかりやすい具体例で言えば、
「結婚しないと〇〇」
「恋愛では〇〇すべき」
といった記事。

その内容に反論してみても、発話の「本体」には届かない。

なぜなら上記の発言をすることによって、彼らが「したいこと」は、お金を稼ぐこと。
内容はただそこに従属している。いくらデータを集めて彼らに見せて書いてあることに論駁したところで、彼らには意味を成さない、効かない。
大事なのは内容ではなく、彼らの発話行為そのものだから。
この時代に、noteで「結婚しないと〇〇」という言い方で記事を書く。彼らは、世界のどんな人にとっても「結婚しないと〇〇」と全身全霊で信じており、無私無欲の気持ちから(と思い込んで)、すべての民衆を結婚に導くことで世界を救えると思っているのだろうか。そんな人もごく稀にいるのかもしれない。ただ、ほとんどは次のようなものだと思う。
上記のような意見をばら撒くことで「消費者」を不安にして、その「解決法」を提示し、お金を稼ぐことができるから。
だから、内容の精度などはどうでもいいのだ。ただ、自分たちが稼げればそれでいい。それで「困っている人を助けている」のだから。

困った人を作り出さないと商売にならない。
それを作り出すための発話は、そこら中に溢れている。
特に、広告というのはそういうものが圧倒的に多い。

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