社会問題に対する態度の共通点。
noteには多くの社会問題について述べている記事がある。
ほとんどの記事に共通することがある。
「〇〇がいけない、悪い。もちろん私は〇〇ではないし、〇〇を要素として持っていない。」
〇〇はある集団や、システム、現象のこともある。
自分自身が社会問題の原因と捉える記事をほとんど見たことがない。
「私」はいつも離れたところから、社会を見ていて、「私」が悪になることはない。
「悪」を外部に求める傾向が人にはある。
これさえ排除すれば、平和が取り戻されるのに、と。
悪をある要素に収斂させる。悪と想定するものと、それ以外との関係は考えず、悪さえ切り取って排除してしまえばいいと考えている。そんなことなどできないのに。
「私自身の〇〇の部分が問題」というのも例外ではない。それさえも、「〇〇の部分がないのが本当の私」という想定がある。〇〇さえなければ、排除されれば、本当の私になれると思っている。
つまり、悪を私の「外部」に想定している。
御伽話、小説、映画などでよく見られる構造。
平和な村があり、そこに怪物が外部から現れる。それを勇者が倒してまた平和になる。
もっと一般的な言い方だと、平穏に生きているところに何が問題が起きる。それを解決しないといけない。それに向き合い、問題の原因を排除することで平穏が戻る。
そうなるのも当然だ。
社会問題について論じている本人が「悪」なのであれば、そんなもの論じてないで、悪である今の自分を排除してしまわなければいけなくなるから。
悪を外部に想定すれば、「私」は責任を負わなくて済む。
もしかしたら責任を負いたくないから、この構造(平和な村ー外部の危険な怪物)を利用するのかもしれない。
悪は内部から生じ、「排除」なんでできないことを知っておきたい。
この記事も、論じていることから離れていることなどできない。
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