壮大であっけない

時が流れるのは速いもので、気付けば祖母が亡くなってから1年以上経っていた。

僕は彼女に昔の話をよく聞いた。ソ連崩壊、沖縄返還、朝鮮特需、僕にとっての「歴史」が、彼女にとっては「経験」だった。それが面白くて、当時何を思ったのか、生活がどう変わったのか、よく聞き漁った。

思えば、人生はちっぽけに見えて、実は壮大である。

かつて馬小屋で過ごしていた少女は、子を持ち、孫を持ち、犬を飼い、猫を飼い、死ぬその瞬間まで立派な一軒家で過ごした。

考えられないことである。
馬小屋で生まれ育った人間が、敗戦後の荒地を生き抜き、晩年は立派なお家で、僕と一緒に、寿司、うなぎ、いちご、梨、何でも好きなものを食べたのだから。

僕が時々大切なおもいでを思い出すように、きっと彼女にも輝かしい思い出を振り返る時があった。

きっと僕は、今の大切なおもいでを、何十年か先にも思い出すのだろう。その時には、膨大な量のおもいでになっているだろう。

今の記憶は、生きている限り当面消えることはないし、これからも、色んなおもいでが蓄積されていく。そう思うと、なんだか少し安堵した気持ちになる。


彼女のお骨を見た時、人間の生命とは、こんなにあっけないものかと思った。ついこの前まで話していた人間、冷たく眠っていても、声をかければ今に目を開きそうだった人間が、今となってはポロポロとした鉄分の塊である。

彼女の経験、おもいで、思考、感覚は、こんなにも簡単に消えてしまった。

人間の生命は、壮大でありながら、あっけない。おもいでは、膨大に蓄積され、一気に消えてしまう。

それでも何故だか、それを意識するほどに、生きる活力が、体の奥深くからふつふつと湧き上がってくる。

そして今、ある言葉を思い出す。高校の国語の先生が引用して言っていた、森鴎外の「青年」の一節である。

一体日本人は生きるということを知っているのだろうか。小学校の門を潜ってからというもの、一生懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。

学校というものを離れて職業にありつくと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。

そしてその先には生活はないのである。現在は過去と未来の間に画した一線である。この線上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。

重要なのは、今まさにこの瞬間なのである。この瞬間、有意義なこと、幸せなことをする。終わりなど考えなくて良い。そうすれば、気づいたときには「今」がおもいでになっていて、壮大な人生になる。


結論を得られた所で、僕はズボンを上げた。

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