写真と記憶
二泊三日のデジタルデトックス旅行に行ってきた。スマホは使用禁止、テレビも一切見なかった。ただ、唯一例外としてデジカメはokとした。
旅行から帰ってきて、三日ぶりにポルノを見た。スマホを触るのも、インターネットで検索するのも、久しぶりの感覚だった。さぞ楽しいことだろうと、ポルノを見始めたが、なんだか違った。
気持ちが悪いというか、なんか受け付けない。少し残念だったけれど、こっちの方が健康的なのかも知れない。僕はスマホをそっと閉じて、想像の世界へと浸った。
手を洗って再びスマホを開くと、ラインには旅行中撮ったデジカメの写真がみんなから送られてきていた。それを見て旅行中のいろんな記憶を思い出して、記憶の世界へ浸る。
写真は記憶を思い出させてくれる。ただそうやって記憶を思い出していると、ある懸念が浮かび上がってくる。それは、逆に、写真がなければ、記憶を思い出すことができないのではないか、だとすれば、写真には写っていなかった瞬間の記憶は、知らぬうちに消えてしまっているのではないか。もっと言えば、写真が記録してくれるのは視覚情報だけで、その時感じた気分、感情、音、温度、湿度、風、といったものは、知らぬうちに記憶から消えてしまっているのではないか。
進化人類学の一説によると、約1万年前ごろから人類の脳が小さくなった要因には、文字の登場があるという。文字が登場したことによって、人類にとって記憶する必要性が低下した。大事なことはすべて、すぐに文字にして記録してしまえばよい。その分、脳内に記憶するものの量が減り、脳が小さい方がエネルギー効率が良いため、脳の容量が小さくなったのだという。
簡単に言うと、人類は文字があることによって記憶をさぼってきたのだ。
実は写真にも同じことが言えるのではないだろうか。我々は、写真があることによって、知らぬうちにひとつ一つのシーンを記憶することをさぼっているのではないだろうか。
しかし、そのシーンで感じた細やかな感覚は、写真には表れない。だから、もし記憶をさぼってしまっているのだとしたら、すごくもったいない気がしてならない。
せっかくお金をかけて、時間をかけて、みんなと集まったのだから、やはり一分一秒たりとも忘れずに記憶しておきたい。でないともったいない。こう思うのはケチの性なのだろうか。
それでも、写真を見返すことで、その時には得られなかったものが得られる。それは、主観的な自分の感覚ではなく、他人である撮影者から見たシーンや、客観的に見たシーンである。そこから共感が生まれる。
どういうことか。写真は、自分で見たシーンが他人の目にどう映ったか想像させてくれる。自分が美しいと感じた景色が、他人の目から見ても確かに美しかったこと、自然と作られた自分の笑顔が、確かに嬉しそうだったこと、それを確かめさせてくれる。我々は他人の視点である写真から、撮影者の感覚を想像して、それが確かに自分の感覚と一致することを確かめ、改めて共感するのである。
人間、自分ひとりで何かを感じるよりも、その感覚を他人と共有した方が効用が増す。だから、自分が美しいと思ったものが、一緒にいる誰かも美しいと思っていた方が、よりよい思い出となる。写真を見返すという作業は、思い出を完成させる最後の作業なのかもしれない。自分の感覚が、確かに一緒にいた人にも共有されていたことを確かめ、思い出が完成する。
しかし、写真を撮るだけ撮って、自分の感覚を忘れてしまっては元も子もない。SNS映えを考えるよりも、自分の感覚をしっかりと記憶に焼き付けることを大切にした方が、お得なのである。