何故人は努力するのだろう
ネタを書く疲労、ミスしてはならないと言う重圧から解放され、僕は今日も日課を行う。
そしてまた、あの多幸感が僕を包み込む。
その時、僕はふと思い出した。
冬の寒い日、塾で夜まで大学受験の勉強をし、家まで帰るバスでのことだった。
インド人の子持ちの若い夫婦が、電気ストーブをせっせと運んでバスに乗り込んできた。
その小さい女の子は、電気ストーブの周りを嬉しそうにキャッキャと跳び回る。
それを見て、僕は多幸感に包まれたのだった。
異国の地で、家族3人、寒い冬、電気ストーブを手に入れて喜びあう。なんと幸せなんだろう。
そして考えた。何故、自分は今、学歴の為にこんな努力をしているのだろう。別にこんな事しなくても、あの家族のように世界の片隅で、ひっそりとささやかな日常に幸福を感じて生きていればいいじゃないかと。
そして今、僕は同じ問題に直面する。何故、自分はお笑いの為に努力するのだろう。
考えてみれば人間、お金になる訳でもないのに、わざわざ時に苦しい思いをしてまで、努力をする。
その理由は何なのだろうか。
それは、本源的には単なる欲望である。自分が共同体に貢献していると感じる欲望、自分が共同体にとって重要だと感じる欲望、他人から認められる欲望である。
これらの欲望は、決して利他的なものではない。何故なら、自分がどの共同体に貢献するのか、どの他人に認められるのか、と言った選択を、身勝手に行なっているからである。
例えば、部活のチームの為に頑張ると言う時、一見利他的でありながら、数あるチームのうち、勝手にそのチームの為に頑張ると言う事を選択している。会社の売り上げに貢献すると言う時、数ある会社の中で、本当にその会社が売り上げを伸ばすことが、社会全体にとって良い事なのか、と言うことは完全に捨象されている。
あくまで、自分が属している共同体、自分のアイデンティティにとって重要な他人の為の努力でしかない。
社会のため、世界のために行動する人もいるが、それも本源的にはその行動が自らの幸福感を高めたり、自己肯定感を高めたり、人生の満足感を高めたりするからである。
言うなれば、ヒトには他人の為に行動する欲望が、本能的に備わっていて、それは食欲や睡眠欲などと同じなのである。人間は何かしら自分が努力する為の対象を本能的に求める。ある人にとってはそれが家族であり、ある人にとっては神であったりする。
それは、長い時間をかけてDNAに組み込まれたものであり、ヒトが繁栄していくのに有利な形質の一部である。決して後天的に、人間が自らの欲望とは完全に切り離して、理性だけの思考によって行き着くものではない。
努力とは、欲望であり、本能であり、生きる活力である。
そして人間は、自らの欲望を把握し、合理的行動をすることができる。すなわち、何に対して、どれほど努力するのか、最適な選択を理性的に判断することができる。
しかし欲望は環境や他人によって喚起されたり減退されたりし、最適な選択は状況によって変化する。だから人間は悩む。何故努力しているのだろう、何に努力すれば良いのだろうと。
そんな時は、努力とは本質的には欲望そのものであって、義務でも何でもなく、食べたり寝たりするのと同じで、ただ本能的に行なっているだけなんだと思い出せば、少し気が楽になるかも知れない。