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5/14 特別セミナー「The Underground music scene in HK in a ‘Post-Hidden Agenda’ period」レポート 前編

5/14 特別セミナー「The Underground music scene in HK in a ‘Post-Hidden Agenda’ period」 @ 東京藝術大学 大学会館2階 大集会室

スピーカー:黃津珏 (Ahkok Wong) (ミュージシャン、アクティビスト、独立研究者)
モデレーター/通訳:江上賢一郎

東京に滞在中のミュージシャン/独立研究者の黃津珏(アコー・ウォン)氏を招いて、2000年代における香港のインディペンデント音楽シーンと、観塘(KWUN TONG)地区における文化・芸術空間の変遷についてのセミナー(@東京藝術大学)の内容をレポートとしてまとめています。通訳しながらのメモだったので日本語が説明調で読みにくいかもしれませんがご容赦ください。長くなっていますので、前半・後半と分けています。

アコー氏による挨拶、自己紹介

みなさん、こんばんは。夜にもかかわらずこんなに集まってもらいうれしく思います。アコー・ウォンです。私は香港出身で、この20年間インディペンデントのミュージシャン、アクティビスト、そして大学講師として活動してきました。今はロンドン大学ゴールドスミス校で、民族音楽学の博士課程に在籍しています。

今回は、2000年代における香港のインディペンデント音楽シーンについて、私が長年過ごしてきた観塘(KWUN TONG)地区における文化・芸術空間の変遷に絡めてお話したいと思います。なぜかというと、この観塘地区は2000年代にかけて香港における自律的な文化・芸術の重要な場所だったからです。

工業ビルの中で生まれた芸術家村

私が10年間暮らしていた観塘地区は九龍半島の東側に位置し、60年代の大規模都市計画によって造成された300以上の工業ビル(工廈/industrial building)が立ち並ぶ工場街、倉庫街です。観塘都市高速によって工業地区と住居地区が象徴的に分割されたこの地区は、かつては香港の工業、交通、商業の一中心地でしたが、70年代に入り香港の製造業が中国本土に移転するにつれて産業の空洞化が起こり衰退していきました。その後90年代に入ると安い賃料と広いスペースに惹かれて若いアーティストやミュージシャン、文化労働たちが入り込むようになりました。以降、観塘工業地区は文化芸術だけでなく、古くからの飴工場、レスリングジムや室内サッカー場などのビジネス、労働者の集合住居など、多様なスペースを内包したユニークな都市的コミュニティを形成し、このような多様で異種混交的な工業ビル内のコミュニティの様子は「垂直の村(Vertical Village)」と形容され、ここで生まれた芸術家たちのコミュニティは「観塘工業芸術家村(Kwun Tong’s Industrial Art Village)」と呼ばれるようになりました。

 私は、2013年に香港の音楽研究者アンセル・マーク氏と一緒に「From the Factories」(2013年)というオンライン/出版プロジェクトを行い、観塘地区の倉庫街に点在する35のアート・文化空間の調査、運営者へのインタビュー(その目的、家賃、面積、どんな直面している問題等について)を実施しました。また、自分自身が過ごしたビル「Yeung 58」での生活を回想/記述したテキスト「Rethinking Poverty and Art: A Decade in Kwun Tong’s Industrial Art Village」では、単にアートスペースや文化空間に焦点を当てるのではなく、ビルに住み着いた人々の空間の使いかた、その暮らし、労働、そして彼らが取結ぶ相互扶助的な関係性について、工業ビルという巨大な空間をめぐる人々の実践そのものに注目して記述しました。例えば、廃品回収のために定期的にビルに来ていた高齢の女性と若いミュージシャンたちの日頃の付き合いなどです。定期的に空き缶を回収しに巡回する彼女のために、ビルに住む若いミュージシャンたちが日々大量に消費したビール缶をまとめて渡すことを日課にしていたこと、ビルの警備員が彼女の荷車の見張りをしてあげたり、印刷会社の労働者たちがダンボールを提供してあげたりしていたこと。そのような日々のささいなやりとりのなかに、香港での厳しい暮らしゆえの相互扶助のネットワークが存在していたのです。また、このように工業ビルに移り住み、シェアアトリエを作りながら活動するアーティストたちは、「Factory Artists」と呼ばれ、ビルのなかで独自の文化システムを作り出していきました。

 多くの文化運動者たちが関わった90-2010年代における工業ビルにおける芸術家村の自律性は、ボトムアップ型の社会運動として捉えられることもありますが、元々はそのような社会変革目指す運動ではありませんでした。ほとんどは、学校を出たばかりの若者たちが、安い家賃で創作や演奏、練習や集まる場所を探していた結果としてこのような文化的コミュニティが生まれていったのです。比較的安い家賃、規制のゆるさ、商業的な投資の対象にまだなっていなかった工業ビルは、ある意味で都市の中のエアポケットのような自由空間として捉えられていたのです。

香港におけるクリエイティブ・クラスとジェントリフケーションの関係

 観塘の工業ビルがこのような自律的な性格を持っていたのは、90年代から2010年までの20年間でした。基本的には、香港における工業ビルへの居住は違法であり、そこでの活動も法的にはグレーです。そもそも工業ビルは「生産」のための場として法的に規定され、居住空間ではない。しかし70年以降、産業移転によって空きスペースを持て余していた大家にとって、どんな形であれ借り手がついてくれることは都合が良く、借主は大家と個別の信頼関係を築いた上で契約を行い、家賃を払うことで秘密裏に居住していました。しかし、行政による周期的な検査が行われると、ペナルティを恐れた大家との契約も打切りになり、結果的に2~3年で退去することになります。北米やヨーロッパのようなスクワット(不法占拠)ではなく家賃を支払っているが、それでもイリーガルな状況には変わりはない状況です。

 このように工業ビルには多様な文化空間が生まれていましたが、行政は依然として「生産」以外のビル利用を違法としていました。つまり文化芸術は「生産」や経済活動に結びつくものとは見なされていなかったということです。しかし2010年以降、工業ビルと文化芸術をめぐる関係性は大きく変わることになります。2010年には香港政府による再開発プロジェクト「Industrial Building Revitalization Measures」、2012年に香港文化発展局による「起動東九龍 (Energizing Kowloon East )」がスタートしました。ここで起こったことは、実際には観塘の大規模な再開発であり、東九龍地区の住宅街、市場、コミュニティが「地区の再活性化」の名の下に根こそぎ失われていく状況でした。私は、この状況を2010年代のポスト・インダストリアル期における都市政策「クリエイティブ・クラス」(リチャード・フロリダ)との関連において捉えています。観塘の大規模再開発は、香港における都市の再開発、経済活性化の特区をつくりだす2番目のプロジェクトとして位置付けられ、それは、文化や芸術などのクリエイティブ産業を後押しすることで、地区全体の不動産価値を上げ、さらなる投資を呼び込むというものでした。この流れのなかで、香港文化発展局の主導による様々な文化プロジェクトや、アートイベントが企画され、グラフィティアーティストたちによる壁画プロジェクトなども展開されていきました。このような状況のなかで、これまで工業ビルを拠点に活動してきた文化労働者たちは、ジェントリフィケーションが引き起こす家賃の上昇、規制の強化や取り締まりに直面せざるを得なくなり、嫌が応にも香港における再開発、ひいては政治的、経済的問題に対する危機意識が高まっていったのです。



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