熊谷知事のお知らせ『阪神淡路大震災から今年で30年』
阪神淡路大震災から今年で30年。私は当時、神戸市須磨区に住む高校2年生で震度7を経験しています。
ベッドで寝ていた時、凄まじい揺れ、というよりも突き上げるような揺れでした。浦安市に住んでいた時に震度4を経験し、地震と言えば横揺れのイメージがあったので、最初は地震とは思えず、自宅の横に隕石でも落下したのではないか、と思うほどの縦揺れでした。
自分の部屋の勉強机の棚が飛んで、大きな音を立てて床に激突するなど、ガタンガタンと揺れている間、音が鳴り続けていたことも印象に残っています。
あまりの揺れと音に、この家はつぶれて死ぬんだ、と思いながらも、とっさに行動できず、ただベッドで揺れているだけでした。地震が収まっても家が無事(多少は損害はありましたが)であることにむしろ驚いたくらいです。
当時の神戸市は地震がない神話があり、神戸でこの揺れなら大阪や東京はどんな揺れなのだろうと思い、ラジオを聞いたところ、神戸が震源の地震だと分かり、非常に驚きました。
ライフラインは全て途絶し、自衛隊のポンプ車で給水し、トイレの水が流せることがこんなにありがたいことかということも痛感しましたし、お風呂はしばらくは入れませんでした。
それでも、同級生の中には親を亡くした者、家が全壊した者もいたので、自分が被災者という思いはわかなかったです。
学校には1時間半かけて通っていましたが、使っている路線の一部が不通となり、代替バスで大回りして2時間程度かけてしばらくの間は通っていたので、それが大変だった記憶はあります。
自分の慣れ親しんだ地域が焼け野原となり、どうしてこれだけ被害の差があるのか、その背景に木造密集市街地や、消防車が入れない狭隘道路の存在があり、行政も無策ではなく当該地域の区画整理等の都市計画があったものの、合意形成の難しさがあった等々、普段は何気なく見ていた街の景色の裏に、行政の都市計画や住民合意などがあることに気づいた震災でした。
その後、私はどの街に住む時も、その地域の都市計画などを調べるようになりました。
当時の知事や市長、県庁・市役所の災害対応についても賛否両論様々な報道がなされ、都市計画・災害対応含めて地方行政・政治に関心を持つようになり、間違いなく、今の私があるのはあの阪神淡路大震災を経験したからです。
当時は緊急消防援助隊も被災者再建支援制度もありませんでした。住宅等は個人の財産であり、地震保険等で自分たちで備えるもので、その個人財産の損害に対して税金で補償するのは公平性に欠けるのではないか、という大原則がありましたが、膨大な被災者を前にして、被災者再建支援制度が創設されました。
当時、国の支援制度が無かったので、個々の自治体がそれぞれ独自に補償をするなど、「あの市はいくら出るのに、この市はいくらだ」など、どうして行政区分の違いで同じ全壊なのに支援が違うのか、高校生ながら納得がいかなかったので、国が一律に支援制度を創設することを知り、非常に良かったと当時思ったことを覚えています。
大震災をきっかけに各種支援制度が構築され、耐震基準も変わり、間違いなく日本は災害に強い国、災害時に国が支援する国となりました。
報道機関は災害の度に、うまくいかなかったところばかりを報道しがちですが、当時を知る者として、間違いなく行政も、民間も、ボランティアも支援を拡充しています。
この30年、災害を教訓とした多くの人達の努力の積み重ねに敬意を持った上で、なお解決するべき課題について前向きに乗り越えていく共通認識を持ってほしいと思います。
あの大震災を経験した者として、市長としても知事としても危機管理・防災を最重要課題と位置づけ、この間、施策を充実してきました。
人類は教訓に学ぶことができる生き物です。令和元年の災害や他地域の災害に学び、防災県・千葉を確立していきます。
※転載に当たっては熊谷知事の許可を得ています。