「被害者認識したもん勝ち」なのは、健全な世の中なのか
世の中には悲しい出来事が溢れている。
それはいじめであったり、事故であったり、暴力事件であったり。
最近ではSNSによる誹謗中傷や、それが起点として発生する悲劇もあったりする。
SNSにおけるいわゆる炎上による袋叩き状態においては、不特定多数が関係することも多い。
そのため、真の加害者というものが浮き上がってくることは少ない場面もしばしば。
無意識の加害者というものがより多く発生することも、責任の問題をさらにややこしくする。
その結果、ますます責任を感じが分からないまま加減を知らず、言葉の暴力レベルがものすごいことをやってのけることもしばしば見かける。
これはネット空間では物理的な痛みを感じにくくなること、不利益を感じにくくなったことが原因であるのかもしれない。
一方でそれに対して、被害者側は何らかの形で防衛を行おうとする。
攻撃されないように、うまく立ち振る舞うということもしばしば。
それはブロックであったり、その場から離れるということであったり。
時には裁判として訴えを起こすであったりする。
仕組みというものがある程度うまく機能することで、何とか救われることもある。
それは被害者である事が権利・アドバンテージであるということによって、バランスが保たれるというもの。
そして結果として被害者が救われて、以上で完了・終了であれば何も問題ない。
ただ一方で、「被害者認識」を本人がすることによって、それを特権として使う事、それが大きな問題になることもあったりする。
というよりも、最近はむしろこちらの方が多く目立ってきているようにも感じる。
それは時に「被害者という名の加害者」ということも十分にありうる。
これが物事を難しくしている要素も大いにあるに違いない。
心から被害を感じて、それを挽回するための立場・権威として必要な仕組みとしての、被害者としての権利。
しかしながら、この権利そのものはとても強い力を持っている。
そしてこの力を利用して、被害者であることをある意味「特権」として活用するということもあったりする。
これは「被害者」だから仕方がないとは確かに言うものの、色々と考えされられるようなものもある。
被害者という権利よってアドバンテージを得ることで、誰にも何も言わせない。
「私たちは被害者なのだから、このくらいの権利は当然でしょ」という形で、大きな顔をしてさらなる権利を主張する。
その結果、本来では解消するべきレベルの問題が、さらに大きな問題となって周囲に影響を及ぼすこともしばしば。
そして、その権利を振り回す被害者に対して「それはおかしい・やりすぎだろう」などと主張したり、反発することはとても難しい。
というのも被害者側としての特権を振りかざし、それをおかしいと主張した人を悪として断罪も可能なのだから。
ある意味「被害者」という特権は、周囲をねじ伏せることが可能な、大きな力が備わっているものといってもいいかもしれない。
被害者こそが実は強者、そんなことも目立っているように感じる。
最近では「本人がどう感じたか」ということが重要視されるようになってきた。
その結果として、その人が感じたことそのものが「被害」と思うのならば、それは全て「被害」と認定するようなものもある。
もちろん本人が心から被害者であることを感じたのならば、それはそれでいいかもしれない。
しかしながら「権利を主張」することを求めるための「被害者」という状態も多くあったりするような気もする。
わずかな何気ない一言すらも、ある人から「被害を受けた」と主張された場合には、かなりのリスクが生じる。
何気ない一言すら、いつの間にか切り取られたり因縁をつけられたりして、莫大な訴訟を吹っ掛けられるような時代。
言論がますますややこしくなっている状態における、被害者という権利。
そして、本当に被害なのかどうかという事、権利の行き過ぎかどうか含めて見破ることが出来るのかどうかという事は、なかなか難しい。
「被害者認識したもん勝ち」な状態が生まれるのは、健全な世の中と言えるのだろうか。
加害者であること、被害者であること。
それは客観的に見えれば「相対的なもの」としてあるかもしれない。
しかしながら、「どちらかが善で、どちらかが悪」として世の中に映ってしまうことが通常の状態。
それを何らかの形でバランスが取れないものを権利という形にして力を持たせることによって、さらなる歪が生まれている。
この歪の連鎖、まだまだ世の中の色々な場面で続いていることも多くあるように感じる。
その結果として繰り返される悲劇。
そしてどちらかが本当に手放すということ、真の許しがが出来るようになるのは、今の人類のレベルではまだまだ先なのかもしれない。
ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?