「謝れ、責任とれ」を相手に要求すること、それは自己責任の放棄?
何らかの被害を受けること、それにより悲しみに苛まれる事はたくさんある。
それは交通事故であったり、暴力であったり、いじめであったり。
強い側が弱い側を徹底的に傷みつけることに対して、その行為の補填を求める。
悪いことをしたのだから、謝罪しなさい。
責任をとって〇〇しなさい。
代償としてお金を払いなさい。
言葉による相手への要求が絶えない世の中。
実際にそれがなされることもあれば、なされないこともある。
形式上の謝罪があって、そのあとは特に変わらずというのも、よくあること。
そのことに対してますます怒りが募る、責任を求める弱い側。
少しでもバランスが取れた形で着地すればよいと感じるが、なかなかそうはいかないもの。
とはいえ、そもそも被害や加害が発生する現場を作り出したという意味では、被害者も加害者も同じ土俵にいたということ。
そして、その場所にお互いどちらかが存在しない、あるいは認識していない存在であれば、このような悲劇は起きなかったのかもしれない。
そこまで考えていることというのはあるのだろうか。
事件として起きてしまうこと、もしかしたらそれは究極的には全て自己責任の世界かもしれない。
その場所にたまたまいたから、その環境にいた偶然が重なったこととしての悲劇。
相手が100%悪いという事は、そもそも存在しない。
同じ場所や環境に居合わせたということが悲劇を生んだということ。
情報と選択肢がたまたま一致してしまったがために起きた出来事。
ミスリードされた情報に従って被害を受けた場合であっても、そもそも情報に触れたという段階で本人の責任は免れない。
情報不足で理解できずに行動したこと、それは本人が悪いということになってしまうかもしれない。
120%自分自身に不備がないとしたとしても、何らかの形で認識したり触れてしまったということは、責任があるという事。
かなり厳しいように感じるが、世界はその点についてはフラットに判断しているように感じる。
行動した段階で、その責任は全て行動者にあるということ。
全てはその選択をしてその場にいた、自分自身が悪いということ。
正直なところ、こんなことごあったら反発したいし、責任なんてどこにもないように感じたくなるのもある。
そんなの不公平と思っても、全ての選択に責任があることを認識していない側が悪いとなってしまうこともある。
ある意味やったもん勝ちの世界になってしまうのではという懸念もある。
その部分に対して、どこまで自己責任として引き受けることが出来るのだろうか。
「謝れ、責任取れ」と要求すること、それはある意味で自己責任の放棄。
フラットな世界から見たら、そのことで自己責任から逃れようとするのは許してはくれない。
どこまで自分の行動に対して責任を意識して行動できているか。
無意識の行動であっても、責任があることを意識出来るのか。
自分自身が全ての原因の源というところから考えるということ、それが出来るかどうかで、物事も見え方は大きく変わってくるに違いない。
ありがとうございました。
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