もし批判をするならば、必ず対案・代案を出すことを習慣に
ひとつの物事に対して、数多くの見え方がある。
同じように物事を良くしようとしていても、アプローチが異なることは当たり前。
時には真正面から意見がぶつかり合って、ただひたすら批判のみを繰り返すという場面をよく目にする。
会議で紛糾して、お互いに良くない点をただひたすら指摘するのみ。
周囲は先に進む気配がないことから引いていってしまう。
もちろん、批判はある意味とても大切な一面を担っていることも間違いない。
盲目的に従うのではなく、しっかりと自分の考え方でいるということは素晴らしいこと。
とはいえ批判一辺倒では、物事が進みにくいのは確か。
進まないことが結果として致命傷になることもある。
だからこそ、同じ場所でとどまるのではなく前に進むか、元に戻るかは必要な気がする。
そのために必要なもの、それは「批判するならば対案・代案を必ず出す」ということ。
批判に対してもし代案があればどうなるのか。
そちらを吟味することが出来ることとなれば、何か少しは進める可能性もあるかもしれない。
もちろん代案そのものが批判されるかもしれないが、それに対しても別の代案を必ず出すようにする。
そして数多くの対案や代案が溢れるようになることで、選択肢が増えていく。
結果としてその中で最も良い選択、問題として一番少なくなる可能性が高いものを選ぶことが出来るようになる。
代案や対案を出すこと、それは物事の選択肢を増やして、よりよい未来に向かうことを可能とするツールであるように感じる。
ただ批判して終わりでは、それは選択肢が無くなるという事のみ。
結果として議論が詰まってしまい、元に戻ることしか出来なくなる。
もちろん元に戻るのも悪くはない。
とはいえ、先に進むという選択も戻るという選択もどちらもあったほうが、しっかりと物事を選んで進むことが出来るような気がする。
この考えを持って、常に批判する時には対案や代案を示すようにしていきたい。
政治において、ただひたすら批判を繰り返すのは、不毛になってしまうことが多い。
それは対案を示すことがないから。
ひとつ対案を示して、さらに良い選択肢を一緒に探してくプロセスこそがとても大切。
政治はまさにその部分こそがもっと存在していてほしいもの。
それが現状は、批判で時間をつぶして現状維持という場面が多い。
もちろん、今という時代そのものがただひたすら停滞してぐるぐるすることが大目的であることもあったりする。
しかしながら、生きている間にもう少し発展的に和気あいあいと政治の世界で物事が良い方向に進んでいくような場面を見てみたいと思っている。
衆議院選まであとすこし、ここからどのような未来が待っているのだろうか。
ありがとうございました。