情報格差と見える世界の違い
情報格差はあらゆるところに存在している。
自分が当たり前と思っていることが、当たり前でない。
世の中の当たり前が、自分の常識と異なっている。
世の中で起きている色々な場面を、それなりに目の当たりにしている人もいれば、あまり経験していない人もいる。
おそらく今見ている社会の形も、自分自身と他の人が見ているモノとは違う。
技術に対する解釈も、知識の有無や原理が見えているか見えていないかで全く異なる。
人によっては、今という時代が過去と比べてどれほど進んでいるかということもわかる。
一方で、ある人は技術がどれほど遅れているかという事も理解できる。
触れている情報や考えている深さによって、かなり異なる世界が見えている。
そして、その一人一人の関心を持つ対象の範囲次第で、見えてくるものはかなり異なる。
その世界が狭いほど時には幸せであると同時に、時には不幸といえるかもしれない。
逆に世界が広いことによって幸せであることもあるが、不都合な事実が見えてしまうことで不幸ということもある。
出来るだけ多くを見ているつもりであって、それは世の中の全体というにはほんのごく一部にすぎない。
どれだけ知識を増やしても、智恵や発想があったとしても、物事を極めれば極めるほど物事全体や範囲がますます拡大し、そしてゴールがより遠くなっていくことに気が付く。
だからこそ、狭い範囲で解釈の中で最善の判断をすることしか出来ないのは当たり前のことと悟るようになる。
その見えている範囲、認識できている範囲の違いによって、世界の見え方は全く違う。
たったひとつの選択・判断についても、選択に対する解釈や見え方も人それぞれ異なる。
ある人はその決断を称賛し、ある人は批判する。
世界の見え方が異なることによって、最善解が異なるのは当たり前。
世界が一つではなく、認識することが可能とする対象物の数だけ存在することを、どこまで知っているのかという事が重要。
会社で社内専用の生成AIが運用されるようになった。
ただ生成AIがこれだけ世間で、そして自分の中で流行っているのに、会社ではほぼ認知されていなかったことに驚いた。
そもそも、それが何なのかわかっていないという事、触れたことがない人が大多数であることに驚いた。
そして応用方法やどのように使うのかということについても、まだまだほとんど知られていないという事だった。
もちろん全く知らない、使ったことがないということについて、良いも悪いもない。
いずれは広がっていくので、その差は初期段階だけだと感じている。
ただ、ここまで知らないのかということについてショックを受けた。
ただ住んでいる世界が少し違うだけ、手に入れる情報が少し異なるだけで、ここまで差があるということ、それが事実として存在しているということ。
認識しているつもりで、実は全然認識できていなかったということ。
情報量の格差があることによって、話しても通じない世界が沢山ある。
もちろん、逆に自分自身が無知の分野については同じように相手側に感じられていることもあるにちがいない。
そして世の中では2極化が進んでいると言われているが、それは認識できていないあらゆる分野で気が付かないうちに進んでいるように感じる。
もしかしたら2極化どころか、どこまでも情報を追い求めたり自身で考え続ける人が情報を発信することで、3極どころか多極になっていることもあるかもしれない。
その結果として、話が通じないということは色々な場所に当たり前のように広がっている。
見えている視点や論点が異なると、お互いにそもそも認識しているものが別のものになる。
それぞれが同じ空間にいたとしても、別の世界、別の解釈の中で生きている。
その事実をどれほど多くの人が認識出ているのかが、とても大切なことのような気がする。
そしてお互いの見え方が異なることについて排斥するのではなく、お互いの世界をそれぞれ知ろうとすることがもっとあってもいいと思う。
そしてお互いの世界を尊重して干渉しないこと、それがとても望ましいと思う。
なので「知らないから教えてあげる」ではなく、本当にその相手が知りたいという希望や要望がなければ、無理やり教える必要は無い。
お互いに尊重するということだけがあれば、争いや諍いは起こらない。
これが当たり前のように出来るようになってこそ、「和」の意味が初めて現実に至ることが出来るのではと感じている。
ありがとうございました。