過保護の先には、より大きな犠牲が存在している
中小企業が、いよいよ苦しくなってきているところがある。
円安が続き、仕入れはどんどん高くなっていく。
デフレマインドの顧客がまだまだ多く、値段を上げると買ってくれない。
国からの補助金もなくなり、インフレの波が押し寄せる。
まさに泣きっ面に蜂が大量にやってくるかのごとく。
コロナ後になって最多の倒産が続くこと、とても悲劇であるようにも感じる。
なぜこのようなことになってしまったのか、人によっては不満を感じるかもしれない。
自分の選択の何が間違いだったのか。
それとも選んだ政治家が悪いのか。
社会がうまく機能していないのが悪いのか。
それとも仕組み含めた何か他のものが悪かったのか。
悪かったということは何もない。
むしろ、自然に任せるがままというやり方をしなかったため、今までのつけが一気に押し寄せたに過ぎない。
保護されすぎていることによるデメリットが、一気に溢れてきたという事。
これはある意味栄養ドリンクで元気を先取りして、後に体に大きな負荷がやってくるかのよう。
保護がしっかりと機能していることはある意味とても素晴らしいことだが、一方で依存体質を生み出し進化を止める。
その結果、本来ならばもっと早く変化して適応できたものが遅くなり、結果として対応が遅れる。
対応が遅れたことにより、犠牲が増える。
ここから、過保護の裏側には時間差による犠牲が増えることについても認識しておく必要がある気がする。
淘汰が当たり前にある世の中。
それは残酷に思えるかもしれない。
しかしながら、そこで生き残った者が新しいものを生み出していく。
その結果、うまく適応できた者のみが最適な世界が構築されていく。
多様性に溢れていたことで、そこから適応可能な個体がとして選ばれたモノだけが生き残る。
まさに変異と選択がなす業。
自然の中で当たり前に行われてきたこと。
そして過去よりもより現在に適したものが生まれ続け、どこまでも生き残る。
個体としてではなく、社会の集団として最終的にいかに生き残る個体を生み出すことが出来るか。
そのためにより強靭でいられるように、各個体があらゆる方向の変化に柔軟であること。
誰かから保護されるのではなく、保護されなくても何時でも大丈夫なように変化を続けること。
そしてその変化をやめないこと。
そうすれば、偶然の結果として集団の中の個として生き延びることができることもあるかもしれない。
激動の時代だからこそ、よりフレキシブルでありたいもの。
ありがとうございました。