「デモ行進」をどの文脈から眺めるか
国内で、色々なデモ行進が行われている。
パレスチナに平和を求めるデモが、早稲田大学や新宿駅で行われている。
ウクライナに平和をというデモが、都立公園で行われる。
移民反対というデモが、川口市内で行われる。
米軍基地反対デモが、沖縄で行われる。
原発反対デモが、国会前で行われる。
直近ではパンデミック条約反対のデモが、池袋や日比谷公園行われている。
人々が訴えるネタは多種多様で、かなり溢れている。
もちろんこれらについて集まる人数や規模もさまざまであるが、時に目立つ大掛かりなデモがニュースにならないことというものが増えているように感じる。
そして、これらについてデモに参加する側や、それを報道して欲しい側の意見はいつも同じ。
「なぜこのような大変なことが報道されないのか」
「なぜこのデモについて、報道機関は無視を決め込んでいるのか」
「メディアは事実を報道する役割じゃないのか」
「そもそもメディアそのものが中立ではなく、実は悪なのではないだろうか」
「権力に忖度している」
「国が乗っ取られている」
もちろん、わずかだが様々なデモを報道する報道機関も存在する。
とはいえ、ほとんどが無視したり情報統制を徹底する。
そのことに対してデモの主催者や参加者は怒りを感じることもあるかもしれない。
逆側の視点を常に考えてみる。
もし報道機関から見たら、デモはどのように目に映るのか。
「活動をしている人は、頭がおかしい人が多い」
「集まって五月蝿いことをする集団は迷惑千万」
「自分にはそもそも関係ないし、集まっている集団が気持ち悪い」
「裏から人々を動員するお金が払われているに違いない」
「ネットメディアに踊らされるリテラシーの低い人がこんなに沢山いるとは」
「そんなに訴えたければ、選挙に行って主張すればいいじゃん」
「情報に弱い可哀想な、洗脳を受けた人たち」
「暴徒化する可能性のある、危険な集団」
「守ってくれる存在に対して牙をむくとは、何様だ」
「あんな大人になりたくない」
「身内があんなのに参加していたら、末代までの恥」
このように目に映ることもあるに違いない。
もしそう感じるのなら、それは報道する価値もないし、そのことについて議論する必要もない。
むしろこのことを報じることそのものがかなり大きな問題であり、メディアがより混乱に拍車をかけることは大きな問題になる。
それこそ報道してしまうことがありもしない空想の問題を増幅させることになり、それこそが本当の問題になってしまう。
このように感じているかもしれない。
一つ文脈を変えてみること、一歩離れてその行動を解釈すると、その行動はどう人の目に映るのか。
逆側の視点が欠如した状態で一方的に片方をおかしいとして批判しまうことには、果たして健全なのだろうか。
もちろん、デモ活動そのもので無関心の人が関心を持つこと、それが目的の上位にある事は間違いない。
デモを起こす要因について実際に様々な事実・証拠が存在していて、それらに対して知ってもらうことが重要であり、問題提起をすることも必要。
ただ、一方的に大手メディアの報道がされないから悪い、報道機関が問題だとする文脈には違和感を感じる。
大手メディアは様々なスポンサーに支えられている、もちろん利権集団に配慮している面も多いにあるに違いない。
ただ、それ以上に今までの世の中における「常識」というものによる「合理性」を考えれば、至極まっとうな行動をしているように感じる。
もちろんその「常識」を作ってきたものは報道機関や教育機関であるのも間違いない。
その視点を十分に持った状態で、何をどのような手段で伝えていくのが効果性のある最適なものなのか。
合理的で当たり前として存在する目に見えない「常識」とされるものをいかに認識させることができるか。
まずはその部分、「自分にとっての常識は何であり、どのように構築されたのか」ということを多くの人が認識・棚卸するところから始まるのではないかと感じている。
「自己の認識」を認識すること、果たしてどれだけ多くの人が出来ているのだろうか。
ありがとうございました。
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