過剰な「恥」に対する思い込みが、必要以上に行動を制限させている
日本は恥の文化と言われる。
後ろ指をさされるようなことはできない。
周りと合わせないことは恥ずかしいこと。
いつでもお天道様がみていて、恥ずべき事や悪いことは絶対にできない。
もし家名に恥を残すようなことがあったら、勘当や絶縁となることも。
もし少し時代が違ったら、人によっては恥のために死を選ぶこともあった。
このように、この国では恥に対してかなり意識を強く持っているということがある。
それは現代でも全く変わらない。
何を恥と認識するのかは、各自の家庭や地域など周囲の環境などによることが大きい。
そしてどのようなものを恥にするかで、大きくその人の行動が変わってくる。
他人に迷惑をかけることを恥とするのか。
見て見ぬふりをすることを恥とするのか。
周囲と合わせないことを恥とするのか。
その恥が強力な機能を果たすことは間違いない。
恥がその人の人格を決定するといっても、もしかしたら言い過ぎではないかもしれない。
恥という認識があること、それによって行動にストッパーがかかることがある。
それによって自制心が出来、自分自身の倫理観と照らし合わせて行動が出来る。
だからこそ、日本人的な感性を持つ人が多い地域や国では治安が乱れにくいということもある。
恥への意識あることによって常にみられている意識が高まり、常にふるまいをしっかりとするようになる。
このストッパーが機能していることそのものについて、悪いことは無い。
むしろストッパーのおかげで安心して暮らせることもあるかもしれない。
ただ、ここ最近では恥のストッパーが過剰に機能していることが多いような気がする。
ちょっとしたことでも誰かの目に恥と移れば、噂や非難の嵐になる。
そして少しでも恥と感じることがあることで、全く行動できなくなる。
恥ずかしさを超えて行動することにためらいが生じ、挑戦が出来ないこともある。
その結果として、得られるはずのチャンスをみすみすと逃してしまうこともあるかもしれない。
科学的にどれだけ合理性があり正しいことであっても、周囲から恥と思われる行為を差し控える。
同調圧力によって恥が形成されてることで色々とねじ曲がってしまい、簡単に解決できるはずの問題がいつまでも解決されない。
思い込みひとつでどこまでもコントロールされてしまうという点で、この恥という文化は弱点を抱えるというのもうなずける。
特に昨今のSNSという過剰増幅装置があることによって、様々な恥とされることが多くさらされるようになる。
わずかな行動が撮影されて、それが恥になるように悪質な切り取りが行われ、それがどこまでも広がっていく。
過剰に機能した恥という文化がもたらすものは、とても強い行動制限。
それによって様々な物が失われるなど、大きな停滞である場面も目立つように感じる。
恥への認識、そのものについては良いも悪いもない。
ただ、恥が全く機能しないこと、その反対に過剰に恥が機能しすぎることによって、ネガティブな影響が出てくることもある。
だからこそ、恥そのものが行き過ぎていないかどうかを自分の中でコントロールすることはとても大切。
どのような場面で何を恥とするか、そして行き過ぎた恥は存在していないか。
今一度自分の中で振り返ることで、自分自身の行動原理を明確化できるかもしれない。
ありがとうございました。