見せかけの和、実は心の中で相手に不寛容な日本人
日本は、和がとても大切とされている社会。
昔の偉い人が言った様に、和を持って尊しとなす。
みんな仲良く、尊重し合うこと。
何か問題があったのなら、しっかりと話し合いをして決めていく。
そもそも衝突を避けるために、お互いの意見が違っても、接触しない様にすることで回避する。
形上はとても穏やかで、問題が起こりにくい素晴らしい関係性である様にも感じる。
とはいったものの、実際に和とされる部分が機能していないのもしばしば。
形として取り繕っているのみで、実際のところは疑問に思うところもある。
疑問に思う理由、それは心の中の思いや考えについて。
というのも、実際についてはどうなのか。
個人的には、とても強い思いが渦巻いている人が多い気がする。
特に最近の出来事に対する反応と傾向について、強く表に出始めている気がする。
明確に表れている場面、それこそがネットの匿名世界における本音。
しかしながら個人個人が強い思いを持っていて、現実のところでそれを出すことをリスクとしている。
そして基本的には相手に対して不寛容。
対面でない匿名であれば、相手の意見や考えに対して容赦しない。
とことん自分の中での違うと感じるのは、様々な手法を駆使して蹴散らしていく。
実体の人間同士において、この場においては黙るけど、相手を本当の意味では決して認めていない。
考えが違ったならば、それは間違いであり、そのことに対して文句は言わせない。
郷に入っては郷に従えという社会が是とされている。
実はそんな社会が実際のところではないだろうか。
ある意味島の中にある村文化が、より強く出ているという感じ。
全員がしっかりと生き残るためには個人や個性を殺すことということが善であり、ある意味得意分野。
物理的手段を使わずにフリーライダーを許さないことこそが、絶対的な善。
だからこそ、空気で強く発言し合う様な文化になっている様に感じる。
見せかけの和であること、相手に対して強く心の中で反発。
これがあるがために疲れる社会に病む人がいても、ある意味構造上仕方がないとして、放置する。
これこそが日本という特性なのかもしれない。
では本当の意味としての和はどの様なものなのか。
それは、相手の目線や文化を完全に読み解いて、それによって生じる行動含めてそれを許すこと。
常に相手側の事情や目に見えない無自覚のものを見えていること。
そして、どんなに自分自身が過ちと考える内容であっても、その考えと考えの前提となるものを尊重すること。
さらに、相手のその考えそのものに対して尊敬するということ。
しかし相容れない内容についてどうしようもない時は、しっかりとルールを決めるもしくは離れるようにすること。
人を物理的に傷つけたり、心の衝突による被害がある時は、絶対に近寄らない。
そして、お互いに棲み分けて接触しないこと。
どうしても無理ならば、お互いに存在を無視して認識しない。
この線引きを常に明確にしながら、常に相手を知っていることが出来て初めて、和が成立する。
だからこそ、国境や文化の境はとても大切なもの。
これを健全な社会と言っていいかどうか、良いか悪いかはわからない。
とはいえ、今よりもある程度は実践される努力はもっとあっていい様な気もしている。
全てがごちゃ混ぜになっている状態から、お互いの領域をもっと明確に分けるとともに、それを尊重し合える状態へ。
そのためには何が必要なのだろうか。
ありがとうございました。