死:終わりがあるということは、とても大切なこと
今日も一日、特に何もなく普通に終わっていった。
日々の生活が当たり前すぎて、メリハリが全くない。
あの事をやったのは昨日だったか、おとといだったか、もはや一日一日があいまい。
始めたときは勢いがあるものの、気が付いたら失速している。
どこまでやっても終わりが見えないということ、それが当たり前になってくると、次第に飽きてくる。
全ての日や瞬間が貴重でかけがえがないはずなのに、なぜそうなってしまうのか。
それは多くの物事に対して、永遠に続くという風で受け取ってしまっているから。
それは終わりがないという想定で過ごしているから。
言い換えれば、永遠に死ぬことがないかのように生きているから。
そんなはずはないのに。
物事にはかならず終わりがやってくる。
かたちあるものは、いつか崩れる。
データ上のものは形すらなく消滅する。
生きているものもいつかは死ぬ。
今当たり前にいる人や景色も、100年経てば全く同じものではなくなる。
人間についていえば、同じような姿や形をしている人がいたとしても、その個体そのものは全く異なる状態。
それに対して鈍感であること、それによって様々なものに対して鈍感になってしまわざるをえない。
ある意味では感覚がマヒした状態。
どのような事象に対しても、何も感じないという状態。
心が動くことがないという事、それは生きていることと本当の意味で言えるのだろうか。
生きていること、それは心が動くこと。
生きていること、それは死という名の終わりが明確に認識できていること。
永遠に物事が続くことは無いということを、知識だけでなく経験として知っておくこと。
それが有るか無いかによって、本当の意味で生きているかどうかということが変わってくる。
生きているを生きているのか、死んでいるを生きているのか。
もしかしたら今を生きる多くは、死んでいるを生きているということが多いのかもしれない。
生きているを生きているためには、死をより強く思えば思うほど可能なこと。
中途半端な生きているは、本当の生きているをなかなか感じにくい。
だからこそ、死:終わりがあるということは、とても大切なこと。
それを現代という死から離れすぎている生の状態で感じられないのは、ある意味健全とは言えないのかもしれない。
もちろん、時代によって何を健全とするのかは様々。
良いも悪いも、判断することは難しい。
あなたは何を良いとするのか。
永遠のものなのか、それとも終わりがあるものか。
ありがとうございました。