押し付けがましい「多様性」のヤバさ。あるいは、『正欲』を読むと嫌いになれるインフルエンサー。
朝井リョウ『正欲』を読んだ。
おもしろいと散々聞いていたが、実際読むと期待値をはるかに上回る傑作だった。上がりきったハードルをゆうに超える筆力に唸る。
かつて『何者』を読んだとき、「この人は間違いなくホンモノだ。現代を代表する作家だ」と思ったけれど、今回はもう「そんなレベルじゃないぞ。日本を代表する作家だ」と思った。夏目漱石とか川端康成とか、そういうランクだと思う。まだ35歳なのに。こういう人が同世代にいると、僕が書くことがなくなるからやめてほしい。朝井リョウ、今からでも年齢詐称を始めて55歳ということにしてくれないかなぁ。
さて、『正欲』はどんな小説なのか。僕は、お仕着せの「多様性」への反逆の物語だと思う。
この本には何度も何度も「多様性」「ダイバーシティ」という言葉が出てくる。だけど、その度にマイノリティの人たちは嫌気が差してしまう。マジョリティが口にする「多様性」はいつもピント外れで、鬱陶しくて、少数派がかえって生きづらくなるようなものだ。
LGBTQへの配慮が取り沙汰されるようになって久しい。最近だとあらゆる会員登録フォームに「男性」「女性」以外の選択肢がある。
もしかしたらLGBTQの人は生きやすくなったのかもしれないけれど、もっと少ないマイノリティの人たちはどうなのだろう。人間以外のものに欲情する性的嗜好の持ち主は? ペドフィリア(小児性愛)は? そういう人たちを異常と見なしながら、LGBTQへの理解を示すことは、本当に”多様性”なのか?
朝井リョウらしいシニカルな視線で、大学生たちが実行する軽薄な「ダイバーシティフェス」を皮肉るところが実にたまらない。
僕が何となく感じていた、そして多くの人も何となく感じていたであろう、「多様性」への違和感が、この上なく明らかな形で描写される。
「ダイバーシティフェス」のようなものを見る度になんだか薄ら寒い気持ちになった理由はそういうことだったんだ。恐らく大学のダイバーシティフェス実行委員は「多様性を認めるのならば、我々はペドフィリアを認めるべきなのか?」という問いに向き合ったことすらない。社会的にある程度認められた少数派を何となく後押しするだけの「ダイバーシティフェス」が薄ら寒くなるのは必然なのだろう。
すごい迫力だ。軽薄なブームとしての「多様性」がそこら中に溢れる世界を、これでもかというほどに鋭く揶揄している。うっすら思っていた「多様性ブーム、嫌だなぁ」という気持ちが、バキバキの彩度で言語化される。
「マイノリティを利用するだけ利用したドラマ」。すごい表現だ。作中では『おじさんだって恋したい』という存在しない作中劇に置き換えられているが、その元ネタは明らかである。このあたりの切れ味もたまらない。
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