「マルチポテンシャライト」は「カラスを溺死させる黒魔術」である。
病名でもついたら、イジめられないし もう少しは楽なのかな?
(andymori『クレイジークレイマー』より)
飲み友だちと、日が出ている時間から酒を飲んだ。
浅草寺のすぐ西、雑多な居酒屋が並ぶ浅草の街道は、ホッピー通りと呼ばれている。少しだけ東南アジアの屋台街みたいなところだ。舗装路に投げ出された安っぽい折りたたみテーブルにホッピーの瓶とジョッキを並べて飲む座席は、「テラス席」なんて洒落たものでは決してない。「路上席」と言う方がふさわしい。
「私は油絵も描くし、商品企画もやるし、UXデザインもやる」
彼女はホッピーのジョッキを傾けながら言った。僕はしらたきがいっぱい入った安い牛すじ煮込みをつつきながら「うん」と返事をする。
「そんなたくさんの仕事を1つのポートフォリオにゴチャゴチャ詰め込んでいいのかな?もっと専門性をアピールした方がいい?」
先月大企業を退職してフリーランスになったばかりだという彼女は、考えるべき喫緊の課題がたくさんあるらしい。ポートフォリオの作り方もその1つだ。面白いテーマだ、と思った。
路上席のテーブルには夕日が当たる。ジョッキの中の氷はオレンジ色の光を反射してお代わりを催促していた。僕は店員を呼び止めてホッピーの「ナカ」を注文した後で、彼女に意見を述べた。
「10年くらい前までは、専門性をアピールした方がよかっただろうね。その方が単価が上がるし、信頼もされやすかったと思う」
国籍がさっぱり分からないアジア系の店員は冷凍庫から乱雑に氷を取り出してジョッキに放り込んでいる。荒っぽい店員の動きを横目で見ながら、続けた。
「でも、現代においては違う気がするね。1つの表現方法に固執する人よりも、色んな表現をやる人の方が幅が広くてカッコいい風潮があるというか……。キングコング西野さんとかは言わずもがな芸人であり絵本作家でもあるし、僕の大好きな佐藤ねじさんは企画屋であると同時にアートディレクターでもあり、WEBエンジニアでもあり、経営者でもあり、ゲーム作家でもある。一番イケてる人たちがやってる働き方なワケで、専門性がないから低単価っていうのはちょっと古いイメージなんじゃないかな。大切なのは通底したその人なりの世界観が存在することで、単一の表現方法じゃないよ」
少し例示がくどくなってしまったかな…と反省しながら、運ばれてきたホッピーの「ナカ」に卓上の「ソト」を注ぐ。残っていた「ソト」の量が中途半端で、ジョッキ1杯を満たすには足りなかった。さっきまでおもちゃみたいな味だったホッピーが、濃いめの焼酎の味に変わった。
「そっか。確かにパラレルキャリアみたいなの、持て囃されてるもんね。単価を上げるという意味だと、流行は意識した方がよさそうだし……ポートフォリオ、そんな感じで作ってみようかな」
納得して話題を終了させようとしている彼女に、僕は「でも」と言いかけて、やっぱりやめた。濃いホッピーを口に含んで、言いかけた余計な言葉と一緒に流し込んだ。身体が少し熱くなって、吹く秋風を気持ちよく感じた。
マルチポテンシャライトは、危ない
僕が飲み込んだ一言の必要性は、相手によって変わる。彼女は聡明で優秀なので不必要だったけれど、それなりに多くの人には必要かもしれない。
無能な人には、無能な人向けの教えが必要である。安易に「色々なものをかけ合わせるポートフォリオが理想」と言ってしまうとかなり問題がある。
仮に、よく知らない大学生にアドバイスするなら、僕はこの一言を飲み込むことはない。それどころか、この一言の方をこそ強くアピールするかもしれない。
その一言とは、これだ。
安易に「マルチポテンシャライト」とか自称しちゃう人は、大体ただ無能なだけの人だけどね。
知らない人も多いと思うので、「マルチポテンシャライト」という言葉について解説しておこう。
まず発端から。「マルチポテンシャライト」が流行する原因になった動画がこれだ。
このTEDの動画内で、話者であるエミリー・ワプニックは「マルチポテンシャライト(Multipotentialite)」という言葉を提唱している。「マルチ(multi: 複数の)+ポテンシャル(potential: 潜在能力)+アイト(-ite:人)」から作られた言葉らしい。
あまり厳密な定義は語られていないが、「次々に興味が移り変わり、新しいことをドンドン始めてしまう人。1つのことをひたすら続けるのが難しい人」ぐらいの認識でいいだろう。エミリー・ワプニックはその例としてレオナルド・ダ・ヴィンチを挙げている。確かに彼は人類史上最大のマルチポテンシャライトと言えるだろう。
そして、この動画が流行って以来、急激に「マルチポテンシャライト」を自称する人が増えた。試しにTwitterで「マルチポテンシャライト」で検索してみるといい。これを自称する人がたくさん現れる。
その中にはもちろん、実際にマルチポテンシャライトと呼べそうな人もいる。多くの分野で分野横断的に活躍して、結果を残す人もいる。
だが、僕が見た限りではマルチポテンシャライトを自称する人の多くが「単に無能な人」であり、マルチポテンシャルというよりはノーポテンシャルと呼んだ方がふさわしい様子だった。
しかも悪いことに、彼らは「マルチポテンシャライト」という便利な言葉を手に入れたことによって自分のノーポテンシャルっぷりに向き合うことをやめてしまい、自分を真摯に見つめなくなってしまったのだ。
特に何も結果を出さず、次から次へとしょうもないことをやり始めては放り出しているのに「マルチポテンシャライトだから」の一言で自尊心を保つことができる。何も成功しないのに自意識だけは肥大化させ続けるヤバい呪文だ。
自称マルチポテンシャライトのヤバさを修辞学で分析する
そういうことで、本日はこの「自称マルチポテンシャライト」のヤバさについてじっくり見ていきたい。
単にヤバさを見るだけではつまらないので、それを修辞学で分析しようと思う。
主なテクストとしてはこちらを活用する。『論より詭弁~反論理的思考のすすめ』である。
この本、新書だが内容がしっかりしていて途方もなく面白かった。
論理学に精通している著者が古今東西の論理学の文献を引用しながら「こんなこと言ってるけど、これ実社会では絶対使えないよね」とボロクソけなしていくという斬新な本である。論理学に詳しい人が論理学をボロクソ言う様子はあまり見られないのですごく面白い。
著者は修辞学(レトリック)の専門家なのだが、本書ではその立場からレトリックの様々なパターンやその実用性について書いている。
レトリックとは何か。それは、言葉を魅力的に見せるための技術である。
それならば当然、「マルチポテンシャライト」などというカッコよさそうな言葉を使うこともレトリックに属する。
今日は、レトリックの専門家である著者の主張を活用しながら、自称マルチポテンシャライトについて考えたいと思う。僕が観測した自称マルチポテンシャライトの行動パターンを確認しつつ、それはレトリックとしてどうなのか、を考えていく。言うまでもなく、自称マルチポテンシャライトをめちゃくちゃバカにする結論に達する。
結論だけ先に言っておくと、自称マルチポテンシャライトの人は「黒魔術をかけられて溺死するカラス」である。
以下有料になるが、本記事を読めば皆さんも自称マルチポテンシャライトの人を見かけた時「黒魔術をかけられて溺死するカラス」とバカにできるようになるので、自称マルチポテンシャライトと出会う機会がありそうなあなたはぜひ課金して読んで欲しい。
単品購入(300円)もできるが、定期購読(500円/月)がオススメだ。10月は4本更新なので、定期購読すれば4本読めて2.4倍オトク。今月の目玉記事は大好評の「インターネットの底辺でのたうち回る地獄のインフルエンサー志望を実名付きでバカにするシリーズ」の続編である。こちらも読めるので気になる方はぜひ定期購読を検討されたい。
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