無の人に自由意志は存在するか?なぜ彼らはゴミビジョンを掲げ続けてしまうのか。
自由意志を持っているふりをしろ。たとえそうではないことを知っていても
(テッド・チャン『息吹』Kindle位置1039)
テッド・チャンの短編集『息吹』を最近やっと読んだ。
読んでおくべき古典SFをたくさん積んでいるので、現代SFはどうしても後回しになってしまう。『三体』も結局まだ読んでない。流行り物に乗っかるのはとても楽しいことだと思うのだけれど、どうしても「古典の文脈を理解した上で現代SFを読みたい」という思いが強い。「半年ROMれ」と言われ続けた悪いインターネットの残響を、今も聴き続けている。
さて、テッド・チャンは寡作で2冊しか出していないのに、「現代最高のSF作家」との呼び声も高く、主たるSFの賞を総ナメにしている。
寡作なのに賞を取りまくるの、超カッコいい。少年漫画で言うと、ダルそうに戦う強キャラである。普段はやる気なくて出てこないのに、いざ戦うとめっちゃ強い。飛影の系譜。
(マンガ『幽遊白書』より)
『息吹』を読んで何よりも面白かったのは、著者の並々ならぬ自由意志への関心である。収録されている短編のうち、半分くらいは「自由意志」をメインテーマにしている。いわゆるラプラスの魔みたいな話だ。「ある瞬間の原子の状態がわかれば次の瞬間が予想できるので、人間には意志などない」的なヤツ。
これを議論の下敷きにして、「自由意志は存在しないんじゃないか」「自由意志が存在しないとしても、存在するつもりで生活することに意味があるんじゃないか」「自由意志に意味がないとしても、我々は"より良い行動"を目指すべきなんじゃないか。それが人生なんじゃないか」そんな数々の問いに溢れた短編集だった。
非常に面白かったし、著者の「主体的に生きることは美しいことだ」というメッセージが様々に形を変えて表れるのがたまらなかった。それ自体はありふれた教訓でも、最高に魅力的な設定の物語で叙情的に綴られると、心を震わせられてしまう。そこにSFの本懐がある。
無の人の自由意志
ところで、僕はこのマガジンで度々「無の人」を扱ってきた。ここ2年間の僕の本業は、無の人の観察だったと言ってよい(子どもの頃はもっと人の役に立つ仕事がしたいと思っていたのだが、なぜかこうなってしまった。やはり自由意志は存在しないのかもしれない)
そして、この2年間で痛感したことがある。不自然なぐらいにワンパターンに、無の人は同じようなゴミビジョンを掲げて始動し、箸にも棒にもかからず消滅していくのだ。
今までの僕は、そんな無の人特有の行動パターンを見て「彼らには集合的無意識が存在するのかもしれない。ユングは正しかった」などと言っていたのだが、今回改めて考えてみると、むしろ彼らには自由意志がないのかもしれない。
無の人は無の人特有の状況に差し込まれており、そこでは無の決定論が幅を利かせている。無の人は見つけてしまったゴミビジョンに抗えず、しょうもない事業計画を掲げてしまう。
そういうことで、今日は無の人の自由意志は存在しないのではないかという仮説について書いてみたい。『息吹』でテッド・チャンが描いた世界を元にしながら。
以下、無の人の実例と、彼が掲げるゴミビジョンの実例が出てくるので、有料になる。気になる方は課金して読んで欲しい。単品購入(300円)もできるが、定期購読(500円/月)がオススメだ。11月は5本更新なのでバラバラに買うより3倍お得。いつ初めても今月書かれた記事は全部読める。
あなたは「こんなものを有料で読む人間ではありたくない」という矜持があるかもしれないが、どうせ我々には自由意志はないのだし、安心して課金してほしい。それははるか昔から決定していて、しかたのないことなのだ。
では早速いこう。今回扱いたい無の人は、こちら。
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