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中華屋でキレるオッサンはそれなりに善良で、世界は悪意なしに戦争が始まる。
先日、仕事で朝から神保町に行った。最近は出版関係者と一緒に仕事をすることが多いので、頻繁にこの町に呼び出される。「余裕があれば古書店めぐりでもするのだけど、今日は忙しいからやめておこう。また今度」といつも思っている。
その代わりに、昼食を食べて帰ることにした。古書店めぐりは余裕がある時で構わない嗜好品的行動だけれど、食事はそうはいかない。生活必需品的行動だ。ランチタイムも終わりが見えてこようかという13時50分、目についた中華屋に、適当に駆け込んだ。
テーブルの上にはランチメニューが置かれている。セットメニューが10個ほど並んでいる。おそらくこの店のウリであろう黒酢を使った酢豚セットが「Aセット」の地位を獲得していた。僕は酢豚も嫌いじゃないけれど、「Bセット」に甘んじている青椒肉絲の方が好きだ。大して悩むこともなく、Bセットに決める。
「すみません」
ホールを歩いている女性店員に声をかけて、注文を伝えた。カタコトの日本語で対応してくれた。日本人ではないが、多分中国人でもない。ベトナム人とかかもしれない。日本語はイマイチおぼつかなかったが、一生懸命ハキハキ喋ろうとしているのは伝わってきた。
「この青椒肉絲のセットでお願いします」
「ハァイ、Bセットですネ!」
注文を終えた後、カバンからハードカバーの本を取り出して読む。最近は必要に駆られてマニアックな本を読むことが増えたので、文庫という選択肢が消えた。
しばらく読んでいると、60代とおぼしき男性が店に入ってきた。通路を挟んで僕の向かい側のテーブルに座ったので、その姿がよく見える。平日の昼間からひどくラフな格好をしているところを見ると、もう定年退職をした人なのかもしれない。
彼は、つい数分前の僕がそうしたのと同じように、しばらくランチメニューを眺めてから、店員を呼び止めた。
「この黒酢の酢豚をお願いします。単品で!」
彼はメニューの中の、「Aセット」を指さしている。
「酢豚ですネ……。単品デ…?」
店員は、ちょっと戸惑っているようだった。無理からぬことだ。僕が彼女の立場でも戸惑うと思う。この人、ランチで入ったのに、セットでなく酢豚の単品を食おうとしてるのか…?指さしているのはセットだし。
日本語がおぼつかない店員も、やはりこの点に違和感を覚えたのだと思う。なんとか抵抗するように、次の質問を絞り出した。
「他ニ何か、ご注文ハ…?」
うん、分かる分かる。お酒とか注文するなら「酢豚の単品」という不可解なオーダーも理解できるもんね。これ聞きたくなるのも分かるよね。
しかし、彼はズバッと答える。
「何も要りません。単品で!」
そして、「単品で!」に合わせて、人差し指をビシッ!と立てた。「1」を表しているのだろう。他に注文はしないぞ、というメッセージである。
「ハァ……ハイ、分かリました」
初老の男性によるビシッ!とした動きに気圧されたのか、女性店員はこれ以上の追求をしなかった。慌てて伝票に何事かを書き込んで、厨房に戻っていった。僕は「大丈夫かな~。もうちょい確認した方がいいんじゃないかな~」と頭の片隅で思った。が、他人事なのですぐ忘れて、本の中身に意識を戻した。
1分が経った。先ほどの男性客の元に、店員が戻ってきた。
「あの、酢豚の単品ハ…ご飯とかつかなイんですが……大丈夫ですか?」
僕は彼女の言わんとすることがよく分かる。「あなたは単品をご所望とのことですが、それはつまりセットではなく酢豚のみの注文、ひいては白いご飯や漬物やスープなどは不要、という認識でよろしいか?」ということだろう。それが彼女の拙い日本語だとこうなってしまう。
だが、彼は違う受け取り方をした。
「あ、そうなの。ご飯とかつかないの?」
「ハイ」
「そう、じゃ、違うのにしようかな。お腹いっぱいにしたいもんね」
僕はここで、「ディスコミュニケーションが生まれてるな~」と思った。彼女が聞きたかったのは「お前、ご飯とか要らないの?セットじゃなくて単品でホントにいいの?」ということなのだが、彼は「黒酢酢豚にはご飯をつけることができない」と受け取っている。
「うーん、それじゃあ……」
としばらく悩んだ後、彼は言った。
「この担々麺と半チャーハンのセットは、ちゃんとチャーハンがついてくるんだよね?」
「ハイ」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりマした」
無事に(?)、注文の変更が終了した。どこかで意図がすれ違っていたとしても、やり取りはそのまま進んでいく。自然言語の難しいところだ。プログラミング言語と違って、構文エラーを検出する機構が存在しないので、根本的におかしなソースコードもそのまま雰囲気で実行されてしまう。
このすれ違いの原因は明らかだ。どうやらこのオジサン客は「単品」という言葉を「ひとつしか注文しない」という意味で使っているらしい。他にドリンクなどは注文せず、「酢豚セットのみ」を注文することを指している。
一方、女性店員は「単品」という言葉を「セットに対置される概念」つまり、「ご飯などをつけない」と意味で使っている。「本当に酢豚だけ」を注文することを指している。
これは丁寧にコミュニケーションを取れば十分に解消されうる誤解なのだが、ふたりとも最小限の口数のままに会話を進めてしまい、是正されるタイミングがないまま意思決定がなされてしまった。『失敗の本質』を思い出した。日本軍の敗北はコミュニケーション不足によって生まれたし、中華屋での変な注文もコミュニケーション不足によって生まれるのだ。失敗の教材は街中に溢れている。
さらに数分が経った。悲劇が起こる。
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