[短編小説]ィジャ君の観察日記
ある夏の日の事です。ィジャ君は自分の家の床下に、良く分かりませんが何らかの動物が住み着いてゐるらしい事に気付きました。
お庭で遊んでゐたら、不意に何かが動いた気がしたのです。そちらに目を向けると縁台の下に何か白いものが見えました。でもその白いものはィジャ君が向くや否や、さつと引つ込んでしまつたのです。
そこでィジャ君は縁台の前に体をかがめて床下を覗き込んでみました。が、薄暗くて何も分かりません。
そこにお母様の優しい声が聞こえてきました。
「ィジャちやん、何をしてゐるの? お八つにしませう」
ちょうどお腹が空いておりましたので、ィジャ君は縁台を離れてお母様の許へ早足で向かいました。
お八つはお母様お手製のニェムでした。とても良い香りがして、お口からよだれがこぼれそう。お母様の作るニェムときたら世界で一番美味しいのです。
ィジャ君は、いただきますもそこそこに、すぐさま口一杯ほおばりました。
「アラアラ、のどに詰まらせてしまいますよ。慌てずにお食べなさい」お母様が優しくィジャ君をたしなめます。ィジャ君はお口の中のニェムをやうやく飲み込みました。
「お母様の作るニェムはとつても美味しくて、僕いくらでも食べられるのです」それを聞くとお母様は嬉しさうに微笑みました。
「さう云えば、さつき縁の下で何やら動物を見かけたのですが、お母様は何か心当たり有りませんか」
お母様も初めて知つたやうでした。
「マァ、いやネェ。危ない動物でなければいいけど。もし何時までも居るやうなら市役所か保健所にでもお願いして駆除してもらいませう。不用意に手を出したりしないのですよ、かじられでもしたら損ですからね」
「大丈夫ですよ、お母様。ごちそうさまでした」
ィジャ君はすぐにお庭に出ました。こつそりニェムをひとかけら手の中に隠して。何故でせう。
実はちようど夏休みの自由研究をだうしやうか悩んでゐたところだつたのです。そこに折良くあの床下にゐる動物に気付いたものですから、あれを観察してみてはどうだろうと思ひ付いたと云ふ訳なのでした。
縁台の下に手を入れて、そつとニェムのかけらを置きました。もしかしたらニェムを気に入つてくれるかも知れません。そうすればィジャ君の前に姿を見せてくれるかも知れません。
でも縁台の前でいくら待つてゐてもあの動物は姿を現しませんでした。
翌朝、ィジャ君は珍しく早起きをしました。
お父様もお母様も、朝寝坊のィジャ君が一人で起きたのを見て驚いた様子です。
ィジャ君はすぐにお庭に出て縁台の下を覗き込みました。すると昨日置いたニェムのかけらは影も形もありません。どうやらあの動物が食べたやうです。
ィジャ君は嬉しくなつてしまいました。
朝ご飯を食べながらィジャ君は床下に居るあの動物の観察を夏休みの自由研究にしやうと考えてゐる事をお父様とお母様に話しました。
「マア、昨日のニェムをあげたの、ィジャちやん?」お母様はあきれたやうな声です。しかしお父様は笑つてかう言ゐました。
「ハハハ、成程、餌で釣らうといふ魂胆か。大いにやり給へ。でも観察するならあまり傍にゐない方が良いと思ふよ」
お父様は嬉しさうでした。いつまでも甘えん坊だと思つてゐたィジャ君が自ら自由研究をすると言ゐ出したのですから。
本心では床下に得体の知れない動物が居るのを気持ち悪く思つてゐたお母様も渋々ながら承知しました。ィジャ君の意志を尊重してくれたのです。
お父様の助言を受け、ィジャ君は庭の植木の後ろの、縁台の下がよく見える場所に隠れて観察する事にしました。
そしてその日から張り切つて観察日記を付け始めたのです。
* * *
◎一日目
ニェムを縁台の下に置いて夕方になるまで見てゐたけど、取りに来る様子はない。
晩ご飯ができたとお母様に呼ばれたのであきらめた。
◎二日目
昨日置いたニェムが無くなつてゐた。きつとあの動物が持つて行つたのに違ひない! これを続けていればじきに慣れて姿を見せてくれるはづだ。
またニェムのかけらを縁台の下に置いて、植木の後ろに隠れて見張つた。
一度縁の下に白い物が動いた気がしたけど、気のせゐかも知れない。
結局今日も姿は見られなかつた。
◎三日目
やはりニェムが無くなつてゐる。夜行性なのだらうか。
今日はンポァナスを置いた。今日のお八つがンポァナスだつたからだ。
ぢつと見張つたが今日も見られなかつた。
◎四日目
昨日置いたンポァナスはほとんど手付かずでその場に残されてゐた。ンポァナスでは駄目みたいだ。あんなに美味しいのに。
お母様にお願いしてニェムを作つて貰ひ、ンポァナスの代わりに縁台の下に置いた。
ぢつと植木の影に隠れて見てゐたら少し眠たくなつてきてしまい、ついうたた寝をしてしまつた。
しばらくして目を覚ましたら、縁台の下に白い動物が居た。ニェムを食べてゐるやうだつた。
僕は思はず「アッ」と声を上げてしまつた。白い動物はこちらを向くとすぐに逃げて行つた。
驚かせてしまつたやうだ。惜しい事をした。
◎五日目
昨日のニェムはほとんど残されてゐた。警戒させてしまつたかも知れない。昨日しくぢつた自分に腹が立つ。
代わりのニェムを置いてみたけど、今日は全く姿を見せなかつた。
◎六日目
ニェムが無くなつてゐた。良かつた。
しかし残念乍ら一日中植木の影で見張つていても姿を見られなかつた。
◎七日目
今朝もやつぱりニェムは無くなつてゐた。
姿見られず。
◎八日目
つひに見られた! 昨日縁台の下に置いたニェムのもとへ、あの動物が姿を現したのだ!
また思はず声が出さうになつてしまつた。しかしそれはぐつと我慢した。
白い動物だとばかり思つてゐたが、身体の周りに何やらくつ付けたり巻き付けたりしていて、それが白く見えてゐたのだ。あれは体組織では無いだらうと思ふ。
さう言へばカニには海藻やイソギンチャクを背中やハサミにくつ付ける種類もあるとお父様のお部屋にある図鑑に書いてあつた。もしかしたらさういう類のものかも知れない。
前足後足が一対づつ。体の表面に毛皮や鱗のやうなものは確認出来ない。ただし、頭部にたてがみ在り。
今日のお八つはニェムではなくャジャィニェ。食べてくれるだろうか。
◎九日目
やつた! ャジャィニェも無くなつてゐるぢやないか!
おまけに今日のニェムを縁台の下に置いてしばらく見てゐたら姿を表して呉れたのだ!
僕は声を出さぬやう必死で口を紡いだ。
さうして観察をしてゐると、どうもあの動物は雌であるらしい事が分かつてきた。背中に子供を背負つてゐる。どこをどうしてゐるのか分からないが体にまとわりつかせてゐるものに絡ませて上手いこと落ちないやうにしてゐるらしい。
ニェムを前足で掴んで匂いを嗅いでゐるやうだ。お食べ、お食べ。僕はさう心の中で呟いた。
ところが、拙いことにうつかり植木に腕を引つかけてしまつた。
ガサガサ云ふ音に驚いたのか、こつちを見てすぐ縁台の下に引つ込んでしまつた。失敗だ。
その後はいくら待つても出て来て呉れないのでつひにあきらめた。
夜に取りに来るかも知れないので半分残つたニェムはそこに残したまま観察を終えた。
◎十日目
昨日のニェムはやはり夜のうちに食べてしまつたやうで安心した。であればまた戻つてくるだらう。
お母様が今日のお八つはンポァナスだと言ふのを無理言つて変えて貰つた。ンポァナスでは駄目なのだ。
たまたまニェムの材料を切らしていてャジャィニェになつたのだけど、これが幸ひした。
ャジャィニェを縁台の下に置き、植木の陰に隠れると、じきにあの動物が姿を現した。やはり子供を背負つてゐる。
僕が置いたャジャィニェを前足で掴み、臭いを嗅いだりした後食べ始めた。僕は物音を立てぬやう注意して観察し続けた。
ところが僕の体はほとんど植木の陰からはみ出してしまつてゐた。夢中になつていて気付かなかつた。
でも相手はこちらを見て僕に気付いた様子ではあつたけれどもそのまま食事を続けた。どうやら危害を加えられる心配は無いと判断したらしい。
食事を終えた動物は悠々と縁台の下に戻つていつた。
◎十一日目
今まで縁台の下に餌を置いてゐたのだが、今日は試しに縁台の手前に置いてみる事にした。縁台の下から出て来て呉れれば観察しやすくなると考えたのだ。
結果は上々だつた。縁台の縁から少しだけ手前にニェムを置いてしばらくすると、例の動物が現れて縁台から出た場所で食事を始めたのだ。明るい場所で観察出来るのは有り難い。
食事を摂る器官は頭の下側の開口部で、頭の前面には突起がある(用途は不明)。その上に二カ所の開口部があり、それで視覚情報を認識してゐるらしい。つまり眼だが、僕らの眼とは大分造りが違ふ。
食事の最中、突然甲高ひ音がした。何かと思へば背負われてゐる子供の鳴き声であつた。
動物は子供を背中から降ろすと前に抱えるやうにして、体に巻かれてゐるものをどかし、中から何かの器官を露出させると子供の頭を押しつけるやうにした。どうやらあの器官から何らかの栄養素が分泌され、それを子供に与へて育てるらしい。あの甲高い声は食事を求める合図のやうなものだろうか。
やがてそれが終わると、母親は子供を背中に戻し、今度は母親が何やら声を発し始めた。一定の節を繰り返してゐる気がする。謂ふなれば歌のやうなものだろうか。してみるとある程度の知能は持ち合わせてゐるやうだ。
背中を揺さぶるやうにして母親は縁の下に戻つて行つた。
◎十二日目
今日は、昨日よりまう少しだけ縁台から離れた所にニェムを置いてみたけど、やはり動物は出て来て食事をしてくれた。どうやらすつかり僕に慣れてくれたやうで、何だかとても嬉しい。
じつくりと食事をする様を観察できた。全く飽きない。
さうしてゐるうちに、この動物の母子をお父様とお母様にも見せてあげたいと思ひ至つた。明日は休日でお父様もお家にいらつしやるので丁度良い。
そこで観察の後、夕食の時にお父様とお母様にその事をお話して承諾して貰つた。お母様はあまり乗り気ではない様子だつたけれど、お父様に説得されてやうやく承知して呉れた。
お父様もお母様もきつとあの動物の母子を見て驚くだらう。実に楽しみだ。
* * *
ィジャ君はここまで書いて筆を置きました。何だか心臓がドキドキします。お父様とお母様は褒めて呉れるかしらん。いやきつと褒めて呉れるに相違ありません。何と言つて褒めて呉れるでせうか。
翌日、皆でお八つのニェムを食べた後、取り分けておいたニェムを手にィジャ君はお庭に出ました。お父様とお母様も一緒です。
まづは驚かせぬやうお父様とお母様には植木の陰に隠れて貰ひました。ィジャ君はすつかり一人前を気取つてお父様とお母様に指示しますと、二人とも和やかにそれに従いました。
次にィジャ君は昨日と同じく縁台の手前にニェムを置き、直ぐに両親の待つ植木の陰に隠れました。
あとは出て来るのを待つばかりです。
しかし中々出て来ては呉れません。もしやニェムを置いた位置が悪かつたのだらうか、見慣れぬお父様とお母様が居るのを察知して出て来られないのだらうかとィジャ君は気が気ではありません。
諦めた方が良いだらうか…さう考え始めた時、縁台の下に白い物が動いたのです。
来て呉れた! ィジャ君は小躍りしたくなるのをぐつと我慢し、お父様とお母様に身振り手振りであれがさうだと教えました。二人とも目を瞠つて縁台の下に注目しています。ィジャ君はとても誇らしい気持ちでした。
やがて動物は縁台の下から出て来てニェムの所へやつてきました。今日も子供を背負つています。そしてニェムを前足で掴み、匂いを嗅ぎ、そして食べ始めました。
こうなればしめたものです。ィジャ君はお父様とお母様がどんな顔をしてゐるのか振り返つて見てみました。
ところがどうでせう、二人の顔色は明らかにおかしいのです。また、ぶつぶつと何やら呟いています。何を言つてゐるのか確かめやうと思つた瞬間、まるで堰が切れたかのやうにお母様が悲鳴混じりに叫びました。
「悪魔よ! あいつは悪魔よ!」
一体どういう事なのかィジャ君には全く分かりません。
助けを求めやうとお父様の方を向くと、お父様は地面に尻餅を突き、腰を抜かしてがくがく震え、「あ、悪魔だア……」と呻き声を上げておりました。こんなに取り乱した両親を見るのは初めてです。
次の瞬間、お母様は奇声を上げながら植木の陰から飛び出しました。ちょうどそこに転がつてゐた薪を携えて。その素早さはィジャ君の知るお母様からはおよそ考えられないほどでした。
お母様は一直線に動物に向かつて突き進み、逃げる暇も与えず振り上げた薪で強かに打ち据えたのです。
哀れな小動物は一溜まりもなく地面に転がりました。その拍子に背中から子供が落ち、子供は甲高い声で鳴き声を上げました。
そんな子供に向かつていこうとするお母様の前に母親が立ちはだかりました。子供を守らんとしてゐるのです。頭部が破れて赤い体液が漏れ出ています。
お母様がまう一撃加えやうと薪を振ると、母親はそれを寸前で躱し、前足で抱えるやうにしてお母様の手に噛み付きました。
しかし半狂乱のお母様が腕を振り回して母親を地面に何度も叩き付けますと、やがて母親はぐつたりとして動かなくなりました。後に残された子供もお母様に踏みにじられると静かになりました。ほんの数十秒ほどの出来事です。我に返つたィジャ君が駆けつけた時には、まう母子共々絶命しておりました。
ィジャ君は両親がこの動物を何故悪魔だと言つて取り乱したのだらうかと不思議に思ひました。ただ、確かに母子の死骸を見てゐると何だか心の中がざわめき、ブルリと腹や翅が震えるやうな気もします。その気持ちがどこから来るのか全く分かりません。遠い遠い先祖から受け継がれた本能的な物でせうか。
死骸の頭部や胴体が破れ赤い体液が流れ出しています。ィジャ君はその赤い体液を見ると、やはり自分とは全く異質の生物だつたのだと云ふ思ひが強まりました。普通体液は透明と相場が決まつてゐますから。
試しに触覚で死骸を検めてみましたが何も分かりませんでした。分かつたのはィジャ君とは違つて、外骨格に覆われてゐるわけでは無いと云ふ事だけです。
その動物が嘗てヒトと呼ばれこの星を支配してゐた種の末裔である事、そしてこの母子がその最後の二疋であつた事をィジャ君は知る由もありませんでした。
<了>