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[ショートショート]色は匂へど

 なんとも気持ちの良い朝。「カズくーん、もう七時ですよ」というお母さんの声で僕は目を覚ます。キッチンから漂ってくるお味噌汁の匂い。温かで柔らかい布団、ふんわりと頭を受け止めてくれている枕の感触。カーテンの隙間から差し込む朝日。目を擦り、あくびをする。腕と両足を思いっきり伸ばす。そうして今まで僕を優しく包んでいてくれた布団に別れを告げ、ベッドを下り、部屋を出てリビングへ向かう。食卓には既に朝ご飯が準備してあり、先に起きていたお父さんが新聞を読んでいる。お母さんはキッチンでお弁当を作っている。「おはよう」僕は両親に言う。二人共笑顔で「おはよう、カズ君」と返す。僕にとってはとても大切な毎朝のルーチンだ。何だか少し恥ずかしいけど、高校生になった今でも両親の事が大好きなのだから。朝ご飯を済ませ、制服に着替える。お弁当も忘れず鞄に入れ、準備万端だ。でもバスの時間まではまだ少しだけ余裕がある。なら昨日の授業で難しかった所を簡単に復習しておこう。でもあまり夢中になるとバスの時間に遅れてしまう。もちろんスケジュールには余裕があるので一本乗り逃したくらいで遅刻する事はないのだけれども。ああ、そうしてるうちにもう出発の時間になっている。いけないいけない、僕は慌てて椅子から立ち上がり玄関に向かう。大声で「行ってきます!」と言いながら靴に足を滑り込ませる。見送りにお母さんがキッチンから出て来る。靴紐を結び、玄関のドアを開ける僕の背中に「気をつけてね」というお母さんの声。玄関の外は明るく晴れ渡っている。毎朝ホウキで道を掃いているお隣さんに挨拶してバス亭に向かう。ご近所さんは親切な人ばかりだし街は明るく清潔だ。僕はこの街とこの街に住む人たちがとても好きだ。やがて来たバスに乗り込む。車内は色々な高校へ通学する生徒たちでいつも一杯だ。眠そうだったり、お喋りしたり、参考書を開いたりと様々だけど、皆輝いて見える。僕はそんな車内の様子を眺めるのが好きだ。元気をもらえるような気がするから。そうして十数分揺られた後、停留所に到着したバスから生徒たちが吐き出され、まっすぐに高校に向かって流れていく。もちろん僕もその中にいる。「カズくん、おはよっ!」後ろから来たかねちーに声をかけられた。同じクラスの彼女とは割りと仲が良い。時々男女の友達数人で遊びに行く事があるが、彼女が加わる事も多い。可愛らしくて気になる女子だ。顔を合わせる度にちょっとドキドキしてしまう。気取られないようにするがバレてるかもしれない。他の友達とも次々合流しながら校舎に入り、教室へ向かう。授業までの時間にお勧めの動画、趣味の話、将来の夢の事、推しのアイドルの話などを友達と話す。好きな物の事を話している時は皆楽しそうにしている。僕はそんな皆の様子を見てますます楽しくなる。やがてチャイムが鳴り、授業が始まる。僕は授業が好きだ。先生は皆優しく教えてくれるし、何より新しい事を知る事が出来るのが楽しくて仕方がない。来年には文理のコースを選択しなければならないのだが、どちらも好きだしどちらにも興味が尽きないので選ぶのは苦労しそうだ。授業が終われば部活に励む。毎日サッカー部で汗を流す。まずはベンチ入り、そして行く行くはスタメン入りを目指している。監督もコーチも親身になって指導してくれるし先輩も優しい人ばかりだ。だからあっという間に部活の時間は過ぎる。同じ部の友人とお喋りしながら夕焼けの校庭を横切って高校を後にする。帰り着いた玄関のドアを開けると、夕ご飯の匂いに包まれる。「お帰り、カズくん。ちょうどご飯ができたところですよ。手を洗ってらっしゃい」お母さんの声がキッチンからする。そこにちょうどお父さんも帰ってくる。二人して手を洗ってから食卓について皆で夕ご飯を食べる。お母さんの作るご飯はいつだって美味しい。食後に少しだけテレビを見て、お風呂に入り、それから今日の授業の復習をする。気付けばもう寝る時間だ。歯磨きをして布団に潜り込む。ああ、今日も楽しかった、明日も良い日になりますように、そう願いながら僕は眠る。
「――ククッ」
 思わず笑いが漏れる。どこにあるんだい、そんな人生。
 椅子の上から見下ろす薄暗い僕の部屋を見ろよ。
 ゴミにまみれ、襖も壁も穴だらけで窓ガラスにはヒビが入り、破れた教科書にはカビが生え、くしゃくしゃのまま放置された制服とジャージはホコリに覆われている。ドアの向こうからは何かの割れる音と共に両親の罵りあう声。窓の外ではけたたましい音を立てて改造バイクの集団がひっきりなしに走り回り、時折そこに怒号や悲鳴が混じる。

 こんな時だっていうのにまた空想をしていたよ。
 いつも正反対の夢の世界に逃げていたからね。習い性ってやつかな。
 でも、もう、これが最後だよ。

 浅き夢見じ 酔ひもせず――。

 首にかかった縄がギシリと音を立てた。

<了>

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kengpong
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