[短編小説] コールコーヒー・ブント・細氷
行きつけの喫茶オーカワで涼んでいるところにベースケがやってきた。
――いーまーはーあーなたーしかーあーいーせなーいー
ドアが開いた僅かな時間に、どっかの店が流している歌謡曲が聞こえた。テレサ何とかという売れっ子歌手の歌だ。テレビやラジオでもちょくちょく耳にする。
「おう、タケシ、いたか」
ベースケはそう言いながらスタスタと店内を進み、俺の前に座った。
「今日は大学行った?」俺は首を横に振る。夏休みも明けたというのに残暑は容赦なく俺を責め苛むのだ、講義になんて出てられない――まあ暑くなくても出る気は湧かないのだが。
カウンターから年配の女性が出て来て、お冷やのコップをテーブルに置いた。
「毎度おおきに、何にしまひょか?」
この喫茶オーカワは、初老のマスターと、この女性即ちマスターの奥さんの二人三脚で切り盛りしている。大学近くの商店街で古くから商っており、学生やサラリーマンに人気があってなかなかの人気店だ。ちなみに店名の『オーカワ』というのはマスター夫妻の苗字とかではなく、夫妻の出身地である大阪市を流れる『大川』から取られたのだということだ。
「じゃ、同じやつね」
ベースケは俺の前にある、半分空になったグラスを指差した。
「はぁい、コールコーヒーひとつ」
この店では、アイスコーヒーの事をコールコーヒーと称している。大阪での呼び方にならってのことだそうだ。
「昨日の『第三ブント』、どうだった?」
伝票に何やら書き込みながらカウンターに戻っていく奥さんを尻目に、俺は少し声量を落としてベースケに訊ねた。
「相変わらずだよ。T大やらK大やらW大やらのお利口な奴らはどうしても上に立ちたくて仕方ないんだな。ムササン如きが何言っても鼻で笑われてオシマイさ」
ベースケは表情を曇らせ、溜め息混じりに吐き出した。
彼の言う『ムササン』とは、正式名称を武蔵野産業大学といい、俺たち二人はこの大学の理工学部に在籍している。池袋から私鉄でしばらく行った東京とも埼玉ともつかないところに、雨後のタケノコの如く建つ私立大学のうちのひとつだ。当然それほど歴史がある訳でもなく、入試の偏差値も大した事ない……何しろ俺なんかが入れたくらいだ。国立最高峰のT大や私立トップのK大W大と比べられては堪ったもんじゃない。
『第三ブント』についても説明しておこう。正式には『第三次共産主義者同盟』と言い、略して『第三ブント』もしくは単に『ブント』と仲間内では称されている。
『ブント』こと『共産主義者同盟』が、共産党を飛び出した学生たちによって結成されたのが一九五八年の事だ。六〇年に一度解体したが、六六年に再建され『第二次ブント』と称して活動し、七〇年に再び解体したのだ。
それから十数年の時を経た現在、夢よもう一度とばかりに幾つかの大学(主にT大K大W大)の左翼グループが寄り集まって三たび結成されたのがこの『第三ブント』という訳だ。
とは言え、もうとっくに学生運動なんて古臭いものは廃れに廃れている。そう、今時の男子学生は女子学生の尻を追いかけ、女子学生はそんな男子学生の品定めに忙しい。講義への出席は賢く計算してアルバイトに励み、貯めたお金で合コン、サークル、ビーチにスキー、天から与えられた学生時代を存分に楽しもう、それが大勢だ。誰が言ったか知らないが、今の若者はしらけ世代。学生運動のような暑苦しいものに進んで身を投じようとするのは変人扱いだ。
そして我が友ベースケは『変人』側だったのである。元々その辺の社会活動に興味と憧れがあったらしく、『第三ブント』の話を聞くや渡りに船で加入したのだ。ちなみにムササンでは左翼系の自治組織的なものは存在しないので、個人での加入となる。
まあそんな事を言ってる俺も、どういう訳か『第三ブント』の一員だったりするんだけどな。どうしてそんな事になったのかも話しておこうか。
俺はムササンを何となく受験して、何となく合格し、何となく入学して以降何もやる気が起きないでいたのだ。
入学後のガイダンスや、いやいやながら出席した教養科目のクラスなどでちょくちょく顔を合わせて気があった数人の友人たちのうちの一人がベースケだった。
やがて本格的に大学生活に馴染んでいく友人たちとは対照的に、俺はやっぱりやる気が起こらなかった。どうにか大学に来ても、講義には顔を出せず、その時々に暇なやつと駄弁るのが精一杯。そのうちに、多くの友人たちとは話も考え方も予定も合わなくなって、次第に疎遠になっていった。
そんな中ベースケに誘われるまま『第三ブント』に加わったのだ。今の自分を変えられるような、何かしらの刺激を得られるのではないかと期待しての事だ。
ところが、会合に出席してみたらどうだい、天下国家について語っているように見えてその実勢力争いが主目的。どうにか主導権を握ってやろうと喧々囂々やり会ってるのを見てすっかり幻滅してしまった。そうそうたる一流大学の学徒をもって任じる者どもがあんな調子では失望を通り越して涙も出ない。
そんな訳で会合への出席は徐々にサボるようになってきた。だからといって大学に行く訳でもない。もっぱら日雇いアルバイトで小遣いを稼ぎ、オーカワでコールコーヒーを飲みつつ古本屋で買った文庫本を読み返す日々の繰り返しだ。
昨日の晩も会合所で定期会合が開かれたのだがサボった。ベースケには毎回出てくれと頼まれている。ベースケの立場も分かるが、モチベーションは下がる一方だ。本当は完全に縁を切りたいのだが、ベースケとの縁までは切りたくないのだ。何しろベースケは本当にいい奴だし、こんなに気の合う友人は初めてだからね。それに俺が居なくなったら、あの優秀(笑)な連中の中で本当に孤軍奮闘となってしまう。まあ、そう言いながらもサボってしまっている訳だが、それはそれだ。
「そういや昨日は鷹浜さん来てたぜ。顔見たいだろ? 来週も出席するみたいだから、お前も出ろよ」ベースケは俺の弱みを握った風にニヤニヤしながら言った。彼女の事を言われると弱い。
鷹浜芳美は中央線の沿線にあるお嬢様大学の学生だ。おっとりとして、いかにも育ちが良さそうで、しかも可愛らしくて、見るからにおぼこな女の子なのだ。『第三ブント』という掃き溜めに舞い降りた鶴とでも言うべき存在だ。どういう気紛れであんなムサ苦しいところに顔を出すようになったのかは定かではないが、フェミニズムや社会学といったところを専攻しているらしいのでその辺の繋がりか。まあ何にしても彼女と出逢えたのは僥倖である。もはや会合に出るメリットは彼女に会える事くらいだ。
おそらく『第三ブント』の中でも狙っている男は多いのではないだろうか。何しろ他の女子学生の面子とは月とスッポンだ。
特に、T大の柄木つねほ女史ときたら、もう本当にモーレツとしか言い様が無い。狐のような細い顔をしていて、大きなメガネの向うから切れ長の目でぐっと睨みつけてくる。色気のないひっつめ髪。化粧気なし。常にジーパンと地味なオックスフォードシャツ。男になんか負けるものか!という雰囲気を全身から発している。俺とベースケは密かに『ホエギツネ』と渾名を付けているが、畏怖の念も多分に隠っている。
彼女はとにかく頭が良く、口ではまったく太刀打ちできない。まるでマシンガンのように言葉が飛んできて、あっという間に論破されてしまう。ただしT大の組織には所属せず、個人での参加との事だ。が、やはりT大陣営の一員である事には変わりなく、彼女がいるからT大が優勢を保っていると言っても過言ではない。まさに一目置かれる存在だ。
そんな訳でホエギツネに関しては苦手を通り越して恐怖すら感じるほどなのだが、一面さっぱりとしたところもあるし、言葉は厳しいものの理が無い訳でもないからまだマシな方だ。
と言うのも、同じ『第三ブント』の中にはただただイケ好かない奴、というのもいるからだ。まあ『第三ブント』の奴らは大体イケ好かないが、その中でもW大の肋谷だけは本当に駄目だ。これはベースケとも意見が完全一致している。
奴は俺たちがムササンなどという三流大の学生だと知った途端、妙に絡んでくるようになった。事ある毎に学力やら大学の格やらを嫌味ったらしく当て擦って示威してくるので煩わしくてかなわん。そういう自分は国内最高峰のT大生でもない癖に、そこを突っ込むと、余裕で入れたけど敢えて入らなかったなどと言うのだった。『入れなかった』の間違いじゃないのかとも思ったけど、それを口に出せばそれはそれで面倒臭い事になる。一対一ならまだしも、ちょっと揉めるとW大のやつらが蝿のように集って加勢してくるのでうっとうしくてかなわん。
しかも腹の立つ事に、かなりいい家のボンボンらしい。何一つ不自由無いだろうに、どうして左翼運動に関わろうとするのか、さっぱり分からない。反抗期ならさっさと卒業しろと言いたい(言わないけど)。
オマケに顔だけはそれなりに良く、スラリとして背も高い。それは本人も存分に分かっているようでガールハントに余念がない。W大内はもちろん外車を乗り回して街角でもナンパし、女を食いまくっているという。まったく世の中は不公平である。
そんな訳で、俺たちはこっそりと肋谷に『オナニーバルタン』という渾名を付けた。もちろんこれも面と向かっては言えないが。示威と自慰をかけて『オナニー』、肋谷を捩って『バルタン』という訳だ。もちろん『バルタン星人』から取っている。しかし段々これさえも称するのが面倒になってきて、最近では『オナバル』と省略している。
腹立たしいと言えば、この『第三ブント』の発起メンバーの一人である、T大の兵後寛一だ。こいつの事は『ヒョーロク』と渾名を付けている。こいつはこいつで何がしたいのかさっぱり分からん。一応議長という役職が付いているが、どうにも風見鶏っぽい感じで、見ててイライラする。会合は大体において「会議は踊る、されど進まず」といった感じなのだが、多くはこのヒョーロクのせいだと見て間違いない。
そんなこんな愚痴と陰口を互いに存分に言い合ってようやく落ち着いた俺たちはコールコーヒーをチビチビやりながら、春に自殺したアイドル歌手の話(かつてベースケがファンだったのだという)とか、上野動物園でパンダの赤ちゃんが生まれたとかそんなとりとめもない話を幾つかし、それでようやく重い腰を上げてオーカワを後にしたのだった。
外に出ると、またどこかから歌謡曲が聞こえてきた。これまたよく聞くので売れっ子なのであろう女性アイドルの曲だ。
――げら、げら、げら、げら、れ・ふぁーびあーん
一番耳に付くサビのフレーズだが、いつ聞いてもこんな風に聞こえる。正確な歌詞は知らないし、特段知りたいとも思っていないが。アイドルと言うには随分大人っぽい――言い方を変えるとトウの立った感じの声だ。まあ、アイドル歌手なんて今は掃いて捨てるほどいるからね。色々新しい要素を取り入れていかなければならないのだろう。逆張りが当たったって感じかな。
そういやベースケならアイドルに詳しいかと歩きながら話を振ってみた。しかし、アイドルなんてもう卒業しちゃったよ、とベースケは笑うだけなのであった。
* * *
ベースケに出席すると約束してしまった手前もあるし、鷹浜さんの顔も見たかったので、定期会合に出席した。
議論は相変わらず前に進まずに終わった。しかし鷹浜さんとは言葉を交わせたので、一概に時間の無駄とは言えない。しかし、その後またホエギツネに絞られてしまい、幸せな気分は台無しになってしまった。
ホエギツネはあまりにもグータラ学生然としている俺たちが気に食わなくて仕方がないのだろう。まあトンチンカンな受け答え(こっちは真面目なつもりなんだが)ばかりする方も悪いっちゃ悪いのかも知れないが、それにしたってあんまりだ。
「あんたたち、本っ当に、何んにも知らないのね! 教養ってもの、あるの? せめて新聞くらいは読みなさいよ、読めればだけど!」そう言ってホエギツネは新聞紙を放ってよこした。
俺はともかく、ベースケの方はそれなりに勉強している筈なのだが、T大生のレベルには遠く及ばないという事なのだった。実に悔しい。
するとヘラヘラした下品な声が背後から聞こえてきた。
「お前『ブント』の意味も分からないんだって? よく俺たちの仲間になろうとしたよな」
オナバルだ。自慰いや示威しかやる事ないのか。T大陣ことにホエギツネには反論ひとつできない癖に。
ちなみに『ブント』というのはドイツ語で同盟や連合を意味する。ついさっきホエギツネに教えられた……というか怒鳴られた。大体議論になると、途端に良く分からん横文字が飛び交って、何について話しているのかさっぱり分からんのだ。日本語で話せ!と言いたい……言えないけど。俺は平和主義者(事なかれ主義者とも言う)なんだ。しかし今日のオナバルはいつも以上にしつこく、そこに他のW大の連中も加わってきたので慌てて逃げ出した。W大の連中は侮蔑的だ。ついでに言うと、K大のやつらは傲慢だし、T大陣は嫌味で衒学的だ。そう思うとどうにもやりきれない気持ちが高まってきた。
その帰り道、俺は遂にベースケに『第三ブント』を辞める事を切り出した。鷹浜さんに会えなくなるのは寂しいが、流石に我慢の限界に思えた。
ベースケにも辞める事を勧めたが、そのつもりは無いと言い切られた。ベースケのこの情熱がどっから出てくるのかさっぱり分からない。
昨年、何たら合意というのが日本とアメリカと――他にもいたけど忘れた――の間で成され、それ以後景気が上向いている(と、たまたま出席した経済学の講義で言っていた)。それが証拠に、しょっちゅう株価が最高値を更新した!とニュースで言っているし、求人も増えていて卒業後の就職にも困らないと聞く。それなのに世の中に不満があるのだろうか。俺やベースケのような貧乏グータラ学生がその恩恵に与っている実感はまるで無いのは確かだが。それでも食うに困ってる訳じゃない。
「……確かに『第三ブント』は、俺の思ってたのとは、ちょっと違ってたっていうのは認めるよ」
ベースケは訥々と話し始めた。
「ただ、やっぱり今の日本は良くない方向に進んでるんじゃないかと思ってるんだ。だから少しでも良くするように活動したいんだ」
「そうかあ……」思ったより真剣に話し出したので、俺はそう返事するのが精一杯だった。
「とにかく、何かしら国民は不満を持っているのだ、というのを示さなくちゃだめだと思っている。今はちょっと揉めてるけど、グループじゃないとできない事もあるからさ」
「ちょっと揉めてるどころじゃないだろ。連中、デモ行進の計画ひとつまとめられないじゃんか」ベースケは返事代わりに深く深く溜め息を吐く。
「そうなんだけどさ……。タケシ、去年あった国電ゲリラ事件、覚えてるか?」
「ああ、あったな」
昨年の冬、東京や大阪など複数の都市で同時多発的に実行されたテロ事件だ。犯人は中核派で、国鉄の分割民営化への反対を訴えての犯行だった。
あれは大変な騒ぎだった。国鉄の線路のケーブルが切断されて電車が運行できなくなり、火炎瓶で焼かれた駅まであった。
「お前まさか、テロリストになりたいのか?」俺の言葉にベースケは慌てて首を横に振る。
「いやいや、そういう事じゃないよ。ありゃ褒められたもんじゃない。でも、あの実行力と団結力は少し羨ましく感じるね。俺はさ、暴力沙汰をせずにアピールする方法があれば、会合で提案したいと思ってんだ。まあそう簡単じゃないし、何も思い付いてないんだけどさ……」
そんな事を話しているうちに駅に着いた。ここから東京を横断するように電車を乗り継いで俺たちの住むムササン近くの学生街に戻るのだ。
切符を買って改札をくぐり、ひと気のないホームのベンチに腰掛け、脇に挟んでいた新聞紙を開いた。さっきホエギツネに投げ付けられた新聞紙だ。その後オナバルに絡まれたり何なりして何となく脇に挟んだままなのだった。改めて見ると会合所での記憶が甦ってきてムカムカしたが、新聞自体に罪はない。まったく馬鹿にしてるよ、流石に新聞くらい読めるっつーの。
「あ、ムササンの事が記事になってるぜ」
電車が来るまでの暇つぶしに目を通していると、横から覗き見していたベースケが声を上げた。
慌ててその指差すところを見てみると、なるほど確かに『武蔵野産業大学』の文字がある。新聞種になるとはやるではないか、我が学び舎よ。
「これだ……」ベースケが呟いた。
「え、何?」
俺の言葉には応えず、ベースケは腕組みしたまま何事か考え込んでしまった。
* * *
その二日後、俺とベースケはムササンの研究棟の前にいた。
昨日、俺の住むアパートにわざわざベースケが訪ねてきたのだ。何事かと思えば、中田山教授の研究室に話を聞きに行きたい、ついては同行してもらえないだろうかと言う。
目的は、あの新聞記事にあったHDTだという。何やら思い付いたらしい事は分かっているので、快く承諾した。
ムササンのカリキュラムとして、俺たちは来年から専門分野の教授のゼミを選んで履修する事になる。そこで、ゼミの話を聞きにきたとか何とか言って中田山教授の研究室を訪問したのだ。
「まだゼミ選択まで大分あるのに、随分熱心だね。いや、良い事だよ、入りたまえ」
いきなりアポなしでやってきた俺たちを中田山教授は気さくな調子で研究室に招き入れてくれた。
これ幸いと、早速新聞に載っていたHDTについて訊ねたところ、嬉しそうに研究室の奥に鎮座するHDTを見せてくれた。ほぼ立方体のひと抱えはある機械で、得体の知れないメーターやら豆電球やらがそこここに埋まっている。かなり重そうだが台車に載せられ、そこにがっちり固定されているので移動は容易にできそうだ。
「まだ実験段階ではあるのだけれども、しっかり機能するんだよ……まだまだ不安定だけどね。コンセントから電源を取る他に、バッテリーでも動くのも画期的なところなんだ。ほら、この間急に気温が上がって真夏のように暑くなった日があっただろう? 大きな声では言えないけど、実はあれ、この装置の実験の結果なんだ。マサチューセッツ工科大学のマイケル・ロバートソン博士による『超時空ストリングの伸張と歪曲に関する理論』というのが基になっているんだよ。論文読んだ? あ、まだなんだ、それはもったいない。読んでおいた方が良いよ。これはどういうものか簡単に説明すると……」
教授は実に楽しそうに、ものすごい早口で喋り出した。が、あまりに高度過ぎて何を言ってるんだかさっぱり分からない。一応理系科目は得意だった(だから理工学部に入れた訳だが)のにグータラ生活ですっかりカンが鈍ってしまったようだ。実に情けない。
しかし、今それを気取られては追い出されてしまいかねないので熱心に聴いた。一方ベースケの方は「なるほど、そういう事なんですか」等といかにも感心したように相槌を打ち、メモまで取っていた。なかなかの演技派である。
結局研究室にいたのは大体一時間半くらいだろうか。その八割がHDTの説明で、二割がHDTの試運転に費やされ、肝心のゼミの説明は本当にさらりと済まされてしまった。
しかし実際HDTはなかなかすごかった。研究室の中が冬になったり夏になったりして、何なら軽く雪まで降った。その後濡れた床のモップがけを手伝わされたがそんなもの全く気にならないほどだった。百聞は一見に如かずである。ちょっと感動すら覚えてしまった。
「――それはそれとして、中田山教授は話が長かったなあ」
帰り道でベースケはそうこぼした。すっかり疲れてしまった様子だ。まあ無理もない。しかし、これで知るべき事は知れたと、ベースケは言う。どうやら確信を得たらしい。
そんなこんなで俺は次の『第三ブント』の会合にも出席する事にした。辞めると宣言したが、一旦保留だ。
理由は三つある。
一つはベースケに絆されたからだ。次の会合で自分が提案をする、心細いから今回だけでいいから一緒に出てくれ……と懇願されたのだ。それに加えてオーカワのコールコーヒーとスペシャルナポリタンを奢ってやるという条件まで付けられてしまっては断れない。何しろオーカワのスペシャルナポリタンときたら絶品なのだ。その代わりちょっと値が張るから俺のような貧乏人は滅多に食べられない。
もう一つはベースケの思い付きの結果を見届けたかったから。
そして最後に、鷹浜さんへの未練が未だに断ち切れないでいるからなのであった。
* * *
会合所に顔を出すと、案の定オナバルが絡んできた。しかし、ナポリタンナポリタン……と頭の中で呪文を唱えてやり過ごした。
実際にはそれでも気分が悪いので、鷹浜さんと話して元気を出そうと思ったのだが、生憎彼女はW大やK大の連中に囲まれて何やら話をしていて果たせなかった。どうせ合コンの誘いだろうが、残念でした、鷹浜さんはそんな軽い女じゃないんだよ。
そうしているうちにいよいよ議事が始まった。今日に限って珍しくちゃんと進行し、いよいよベースケの出番となった。
名を呼ばれたベースケは皆の前に立って一礼し、ゴクリと生唾を飲み込んでから、第一声を放った。
「ドうシノミなサン!」
発声一発目でいきなり声が裏返ってしまった。ワンフレーズ全部が裏返るなど、そうそうない。見ている俺まで冷や汗が出て胃の辺りがキュッとなった。周りの様子を窺うと、そこここから忍び笑いが漏れている。オナバルがニヤニヤしているのも目に入った。お前は足の小指をタンスの角にでもぶつけてろ。
しかし、それとは対照的にホエギツネは姿勢良く椅子に座り真面目な顔で発言者、つまりベースケの方をしっかりと向いているのだった。流石である。
ベースケはゴホンと咳払いをして再開した。それはおおよそこんな調子だった。
「第三ブントのレゾンデートルとは何か? 今こそ思い出しましょう、従来名誉と尊敬とを博していたすべての職業に、剥ぎ去られてしまったアウラを取り戻さねばならないという事を。到る所において、万国の民主的諸党派の団結と一致とのために努力せねばならないという事を。プロレタリアは自分の鎖より他に失うべき何ものも持たないのです! レトリックやルサンチマンからはアウフヘーベンには至らない! カオスではなくコスモス、即ち上部構造主導のカタルシスこそがアウラを産むのであります!」云々。
正直俺が思った以上に雄弁な語り口であった。しかも失速せずに最後までやり切って見せたのだから立派なものだ。ただ、要約するとHDTは爆弾なんかよりもずっといい示威の手段となり得るから、こいつを使って何かしらデモンストレーションしないか、というだけの事だった。修辞法にはゆめゆめ注意せねばならぬ。
発表を終えたベースケが再び一礼すると、いの一番にホエギツネが大きな拍手をした。つまりホエギツネはこれを全肯定する、という意志表示だ。その時ニヤニヤしていたオナバルの顔色が一瞬で変わったのを俺は見逃さなかった。ザマミロ。しかし驚いたのは俺も同じだ。
これで流れはすっかり傾き、にわかに侃々諤々な議論と不思議な熱狂が巻き起こった。珍しくヒョーロクがやる気を出して議事進行を仕切るほどだ。あれよあれよという間に決議がとられ、賛成多数でベースケの提案は承認されてしまった。他の左派グループとの対抗心から実力行使を実行したい欲求があったのは間違いあるまいが、それにしてもすごい勢いだ。
ただ一方で、どこまで考えて賛成票が投じられたのかは分からない部分もある。中にはただ騒ぎが起こるのが楽しみで、ノリで投票した奴も少なくないようなのだ。世も末である。
しかし、何はともあれ会合は熱いまま終わった。最終的な結論として、具体的なデモンストレーションの計画は上層部で草案を作って次回以降の会合で議論するという事になった。
ベースケと俺はそれまでにHDTを調達する。なかなか重要な役回りだ。これが上手くいけばつまらぬ奴らにデカい顔をされる事もなくなるだろう。
会合が終わり、ベースケの顔を見ると、この会合までの努力と苦しみの現れだろうか、目の下には黒々とクマが出ていた。心なしかやつれてもいるようだ。
俺はすっかり感服してしまった。
「え、クマ? ……ああ、これね……」ベースケは少し申し訳なさそうに答えた。「夜中にロマンポルノをやっててさ」
スペシャルナポリタンを啜りながらそれを聞いた俺は、一瞬啜るのを忘れて口からスパゲッティをぶら下げたまま固まってしまった。
ベースケ曰く、昨晩遅く息抜きにテレビを点けたら日活のポルノ映画が放送されていて思わず見入ってしまい、それが終わったら夜が明けていて、明るくなったら眠れなくなり、結果一睡もできなかった……というのが真相なのだった。なんでも冒頭から素っ裸の女の子が出て来て、それが泥棒なのだという。説明を聞いただけではちょっと訳が分からないが、普通に面白かったそうだ。
「いやいやいやいや!」ベースケは両の手の平をこちらに向けて左右に振った。
「もちろん随分頑張ってスピーチ考えたし、シャクに障るけどホエギツネにも相談したんだ。意外と話せる女性だったよ、彼女。ただ、言葉はかなりキツかった。そのお陰でこんなにやつれてしまったって訳さ。あとは根回しもした。性には合わないけど仕方ない……それもホエギツネの入れ知恵なんだけど。まあ上手くいったんだから、さ(そう言ってベースケは下手くそなウィンクをして見せた)」
……とりあえず細かいことは置いておく事にする。ベースケの言う通り上手く事が運んだし、約束どおりコールコーヒーとスペシャルナポリタンを奢ってもらえたしな。
それに、あのお高く止まったT大K大W大の連中の鼻を(多少かもしれないが)明かしてやれる千載一遇のチャンスが巡ってきたのだ。
面白くなってきたわい。辞めるのはこれが済んでからだ。
* * *
問題はどうHDTを入手するかだ。
まあ研究室に忍び込んで、無断で拝借する以外にはないが、当然バレたらまずい。夜闇に紛れての隠密行動が必要となる。有り体に言えば泥棒である。流石に素っ裸になる必要はないが。
会合から数日経った明け方近く、俺とベースケは大学の裏にやってきた。これから大学に忍び込むのだ。一応目立たぬよう、暗めの色のジャンパーを羽織り、ナップザックに懐中電灯やら軍手やらを忍ばせている。
そうして、いざ行かん、と構えたところへ夜闇の奥から誰かが歩み寄ってるではないか。そいつはズカズカと俺たちに近付き、不快な声を発した。
「よお。お前らだけじゃ心許ないからな。お目付け役に来てやったぞ。本当ならこんな三流大に足を運ぶ事なんて無いんだがな」
オナバルだった。計画をどこからか察知して、わざわざ来たらしい。親切心で来たのでないのは間違いない。恐らく俺たちばかりが手柄を立てるのが面白くないのだろう。まあいい、あの重そうなHDTを動かすには一人でも手があった方が良いのは間違いない。ここはぐっと堪えて実を取る事にした。
この数日間で、警備の体制はすっかり調べ上げてある。警備員はそんなに人数がいる訳でもないし、見回りも頻繁ではない。いわんやこんな夜更けをや。大学の垣根には方々切れ目があるから敷地内への侵入も容易だ。
という事で俺たち三人はどうという事もなく順調に研究棟までは来る事ができた。
今晩、研究棟の最上階の研究室が一晩中実験するという情報を掴んでいる。なので出入口に施錠はされていない筈だ。ドアノブを捻ると、ドンピシャリ、ドアは苦もなく開いてくれた。
そのまま暗い廊下と階段を忍び足で進み、『203・中田山研究室』と札が掲げられたドアの前に到着した。
「研究室のドアにも鍵がかかってるんじゃないのか?」オナバルが囁くと、ベースケがその鼻先に鍵を差し出した。オナバルのやつ目を白黒させてやがら。
実はこの間研究室を訪問した際に予備の合鍵をくすねていたのだ。戸棚の上に置きっぱなしになっていて、ご丁寧に『研203・予ビ』と書かれたタグまで付けられていた。これ幸いと、素早くポケットに滑り込ませたのだった。あの教授、学問以外のところは案外間抜けだわい。
ベースケはゆっくりと鍵を差し込んで、静かに回した。ドアは小さくカチャリという音を立てて解錠された。これで研究室への入口が開かれたのだ。俺は思わずゴクリと生唾を呑み込んだ。
ベースケが先頭、二番手が俺、殿にオナバルという順で入っていった。ベースケが懐中電灯を取り出して足元を照らす。あまり光をチラチラさせて、窓から異変を気取られてはならないが、その辺はちゃんと心得ている。
体勢を低くして、研究室の中をゆっくり進むと、じきにHDTへ到達した。壁のコンセントに繋がる電源ケーブルを外し、他に引っかかっているものなどが無いか確認して、HDTを(正確にはHDTの載る台車を、だけど)ゆっくり転がした。
そうしていよいよ研究室のドアのところまで辿りついた時だ。後ろでガタンと物音がした。三人揃って振り向くと、これまで全く気付いていなかったのだが、入口近くに設置してある応接用の長椅子の上で、中田山教授が寝ていたのだった。寝惚けて手でも何かに当ててしまったようだ。
「ううん……?」教授は目を覚まし、長ソファーの上で身体を起こした。まずい。ベースケは慌てて懐中電灯を消したが時既に遅し。
「誰だ!」
教授はすぐに侵入者がある事を察知し大声を発した。ここで捕まる訳にはいかない。俺たちはHDTを全力で転がして走り出した。
すぐに研究室の明りが点灯された。顔を見られただろうか。てっきり誰もいないと思い込んでいたので顔を隠すようなものは一切持ってこなかった。何しろ泥棒するのなんて初めてだからな。
階段をどうするか一瞬迷ったが、ベースケの指示で、皆の力を合わせて持ち上げる事にした。実際持ち上げてみると恐ろしく重たい代物であったが、三人でウンウン唸りながら、どうにか一階まで下りられた。しかしそこで満足してはいけない。逃げねば。
すっかり息切れしていたが、それでもHDTを転がして全力で走って研究棟を飛び出し、大学の裏口を目指した。後ろから「待てー!」と声がした。警備室に通報がいったようだ。ああもうますますまずい。大事にする予定じゃなかったんだがなあ。
しかし今更そんな事を言ってもしょうがない。逃げ切りたいの一心でひたすら足を動かす。
気付けば大学の敷地を出ていて、そこから少し離れたところにある市民公園の中にいた。この公園は割と広くて、身を隠す場所はふんだんにある。HDTが嵩張るがどうにか植木の陰にでも隠れてやり過ごそう。
「あれっ? オナバルがいないぞ」
ベースケに言われて気付いた。確かにオナバルのやつの姿がどこにもない。あの野郎、一人で逃げやがった!
しかし、今いない奴をとっちめる事はできないし、それよりも、まず己が逃げ切らねば話にならぬ。
どうにか隠れ易そうな木立を見つけ、HDTと共に隠れて息を潜めた。舗装されていない場所だったので台車が動かしづらく、かなり大変だったがどうにか隠れられた。オナバルがいたらもう少し楽に隠せただろうに。あいつ、本当に何しに来たんだ。
そのうちに夜が明けてきた。辺りを窺ってみたが、特に誰かが探し回っている様子もない。どうやら逃げおおせたようだ。
早朝のひと気のない商店街を、HDTを転がして進んだ。当初はベースケのアパートに持っていこうと思っていたのだが、途中で見付かってしまった事で急激に不安にかられ、どうしようか迷っていた。
そうしているうちに、喫茶オーカワの辺りまで来た。すると、オーカワのマスターが店の前を掃除していたのだ。
その様子を見て俺は一計を案じた。まあ一計というほどではない。捜査の目を眩ますため、一時オーカワにHDTを匿ってもらえないか頼んでみる、というだけだ。ただ、違法行為の片棒を担がせてしまうのは申し訳ないので詳細は伏せるのが好かろう。断られたら、その時はその時だ。
「ありゃあ、タケシくんにベースケくんやないの。こんな朝っぱらに、どないしたん?」
いきなり声をかけられて驚くマスターに、必死で訳を話すと、案外すんなりとオーケーしてくれた。
「何や分からんけど困っとるんやね。一日くらいならええよ。ほら、ここに収まらんやろか?」
マスターは店のカウンターの裏に案内してくれた。なるほどちょうどよい幅の、お誂え向きのスペースがあるので、そこにすっぽり納めさせてもらった。ありがたやありがたや。
今日の夕方にでも回収して『第三ブント』の会合所に運び込もう。そして次の定期会合でお披露目だ。同時にオナバルをとっちめてやる。
しかし、まずは休養が欲しい。疲れて眠くてしょうがない。ベースケが雑魚寝でかまわなければ自分のアパートに来ないかと言ってくれた。ベースケのアパートの方がここから近いのだ。ありがたく、お言葉に甘える事にした。
殺風景な四畳半の真ん中で、折った座布団を枕にふたり横になった。たちまち夢の中にいた。
* * *
陽が昇るにしたがって気温も上昇していき、じきに暑くて寝ていられなくなった。俺もベースケも汗だくで目を覚ましたが、風呂とかシャワーとかそんな高級品はこのアパートには備え付けられてなどいない。かといってまだ銭湯の開く時間でもない。
仕方ないので手拭いを水で濡らして汗を拭く事にした。ベースケが譲ってくれたので、お先に失礼させてもらって流しの蛇口を捻ったら、お湯が出た。
「あちちち!」思わず手拭いを取り落としてしまった。蛇口は一つきり、これまで何度もこの流しを使わせてもらっていて水しか出ないと思い込んでいたのに不意打ちされて余計に驚いてしまった。
まったく不思議な事があるものだ、と思ったが、よくよく考えてみるとこのアパートは剥き出しの水道管が壁伝いに這わせてあるのだった。どうやら強い陽射しに炙られて水道管ごと茹ってしまったらしい。その様を見てベースケはゲラゲラ笑っていた。分かってて先に使わせたな、ベースケのやつ。
少し水を流すと、ようやく冷水になってくれたので、それを手拭いに浸し、固く絞って体中を拭いた。一時的ではあるが、何だか少し涼しくなった気がした。
毎日思っているが、今年の残暑はまったくもって厳しい。正直こんな炎天下を歩きたくはないのだが、大望の為だ、ここは頑張らねばならぬ。
二人でアパートを出て喫茶オーカワへ向かった。俺は一段落したらまっすぐ自分のアパートに帰るつもりだったので、昨日持参した道具を入れたナップサックを肩にかけて出た。
時刻は既に午後三時を回っており、昼食の需要がひと段落した店内に客の姿はない。こりゃ好都合だ。
店に入ると、マスターの奥さんだけがカウンターにいた。マスターは買い物にでも出かけたのだろうか。奥さんは俺たちに手招きすると、何やら飲み物をカウンターに置いた。それは一見するといつものコールコーヒーだが、コーヒーが見た事もないほど細かいシャーベット状になっているのだった。
「これ、新メニューにしたらどうやろか思うてな。試してみいひん?」奢りだというので二人して飲んでみると、これがなかなか美味しいのである。夏にぴったりだ。
「これ、どうしたんです?」と訊ねると、奥さんは得意気にカウンターの後ろを見せてくれた。
今朝、マスターに頼んで置かせてもらったHDTの上にコールコーヒーのグラスが二つ三つ置いてあった。
「何やうちのダンナがな、いつの間にか新しい機械を入れよってな。本当は触るな言われたんやけど、こっそりコンセント入れて動かしてみたんや。そしたらヒンヤリするやんか、ほいで試しにコールコーヒーのっけてみたら、こんな風になったんや。美味いやろ?」
俺たちは頭を抱えてしまった。危うく大事故が起こりかねない所だ。偶然出力が絞られていたので、コールコーヒーをシャーベット状にするのにちょうど良く動いてくれたらしい。
そこへ買い物袋を持ったマスターが帰ってきた。
「あっ、何しとんのや? 触るな言うたやろ」「せやかて、これ、ええもんやないか」「いやいや、タケシくんとベースケくんから預かっとったもんやから。勝手に使たらあかんて」「そんなん知らんわ。何も言わん方が悪いんちゃうん?」
マスターと奥さんは凄い勢いで言い争いを始めた。夫婦喧嘩の火種を作ってしまった訳で、実に気まずい。
やがて口論は、このコーヒーを一度飲んでみれば分かる!と奥さんが迫り、約束を違えて作ったものなど絶対に飲まない!とマスターが拒否する流れとなった。しかしマスターは遂に根負けし、一口だけという約束でグラスを口に当てた。
「わっ、美味っ! なんやこれ、めちゃくちゃ美味いやないか!」
マスターの態度はころりと変わってしまった。
「これホンマにええなあ。この機械どこで買えるんやろか。ムササンに行ったらええのんか?」
「いやいや、これは売り物じゃないですよ。世界に一台しかない試作品で、僕らも借りてるだけですから」
「何とかならんの?」「いや無理です」「そこを何とか」「無理無理」「この通り」「いやいや」押し問答だ。
マスター夫妻を宥めて賺して、どうにかHDTを店から出した。
「残念やなあ」
未練がましく言われると何故だか罪悪感に似たものが脳裏に浮かぶ。しかし考えてみればこっちはひとつも悪くないのである。
そのままHDTを転がして近くのタバコ屋まで行き、ピンク電話から『第三ブント』の会合所に電話をかけた。
すると、あにはからんやホエギツネが電話に出た。会合所には彼女しかいないようだ。
「例のHDTですけど、どうにか入手できたんで、これから会合所に運びます。あ、知り合いのクルマに乗せてもらいます。H町なんで、ここからちょっと距離ありますけど。あ、そうです、街道沿いにまっすぐ……ええ、気を付けます。それじゃ」
ベースケは伝えるべき事を伝え、そそくさと電話を切った。あまり話が長引くと十円玉を足さねばならなくなる。ケチくさいがお互い貧乏なので気持ちは分かる。
H町の知り合いというのは、同じムササンの太沢という奴で、中古屋の特売で買ったという古い軽自動車を持っており、これで時折配送のアルバイトをしている。今日は休みだという話は聞いていたのでいきなり押し掛ける事にした。もちろんあらかじめ電話した方がいいのだろうが、気後れして電話できなかった。
なにしろ太沢が住んでいるのは集合玄関で大家さんが管理しているタイプの古式ゆかしいアパートで、大家さんに電話して呼び出してもらう形となるのだが、この大家さんというのがなかなかに面倒なババアなのだ。
俺たちは、えっちらおっちらHDTを転がしながらH町に向かって歩き始めた。
しかしこれは大きな間違いであった。それほどの距離はないと高を括っていたが、意外とそうでもないという事が、いつまで歩いてもまだ着かないという現実からイヤと言うほど分からせられたのだ。
ちょっと気が遠くなってきた頃にようやくH町に入った。太沢のアパートまではもうしばらく街道沿いを歩かねばならない。
すると俺たちを追い越すような形で、見るからに高級そうなセダンがすぐ目の前の路上に停まった。そして、左ハンドルの運転席から見慣れたイケ好かない顔が飛び出した。
オナバルだ。こいつ抜け抜けとよく顔を出せるな。
「いよお、昨日は悪かったな」
オナバルは、ニヤニヤしながら俺たちに呼びかけた。どう見ても悪いと思ってなさそうな態度だ。流石のベースケもひとこと言わずにはいられなかった。
「お前、昨日は随分逃げ足が速かったじゃないか。こっちは大変だったんだぞ」
「はぐれちまったんだよ。お前らと違って土地勘ないんだぜ、こっちは」
オナバルはけろりとして悪びれる様子もない。そのままハンドルの付け根辺りに手を伸ばして何やら操作すると、セダンの後ろからガチャリと音がした。
「ほら、トランク開けたぞ。さっさとその、HDT、だっけ? それ、乗せちまえよ。悪いと思ってるからこうして来たんだぜ、この後デートの約束があるってのにさ」
こいつに恩を着せられるのは腹立たしいが、万一太沢が不在だった場合を考えると乗せてもらった方が良いと判断せざるを得ない。二人がかりで重たいHDTを持ち上げてトランクに乗せると、ぐんと車高が下がった。
ふぅと一息して汗を拭い、後部座席のドアに手をかけると、オナバルが制した。
「おい待てよ、トランクがちゃんと閉まってないみたいだ。走ってるときに開くとかなわないから、しっかり閉めてくれよ。なんなら二人で押してみてくれ」
ちゃんとロックされたと思ったんだがな……と二人してトランクの様子を見に行くと、突然エンジンが吹かされた。
もうもうと噴き出す排気ガスに咽る俺たちを尻目に、セダンは派手にタイヤを軋ませ、あっという間に街道の向こうに消えていった。
「待て! この野郎!」
いくら叫んでも後の祭りだ。俺は地団駄を踏み、ベースケは茫然自失で見送るしかできなかった。
* * *
オナバルの奴、手柄を横取りするつもりだろう。俺たちが何を言おうが口八丁で誤魔化されてしまうに違いない。そうなっては危ない橋の渡り損だ、どうにか阻止せねば。
まずは会合所に電話した。ホエギツネが出る事を期待したが、電話番を交代してしまったらしく、別の女の子が出た。
あまり詳しく事情を話す訳にもいかず、ひとまずオナバルについて訊ねると、今日はは会合所に顔を出していないとの事だった。そもそもあいつは定期会合以外で会合所に現れる事は滅多にないのだ。
もしかしたらデートの約束があるというのは本当なのかもしれない。とすればまだ猶予はある。デートだろうが何だろうが、とにかくオナバルを捕まえてHDTを取り戻そう。ついでに二三発ぶん殴ってやる。
しかし、東京は広い。デートスポットなんざゴマンとある。当てずっぽうに捜したところで見付けられるとは思えない。
――しかし、だ。俺には、ひとつ思い当たる場所がある。
それは高尾山だ。
実は以前あいつがW大の仲間に自慢話をしていたのを小耳に挟んだ事がある。曰くクルマで高尾山の知られざる夜景スポットに女の子を連れていけばイチコロ、上手くすれば車内でイッパツもあるという、まことにケシカラン話である。
話の中で、その夜景スポットとやらの場所もほのめかされていた。実を言うとあの辺りはそこそこ土地勘がある。俺は八王子の生まれで、小中学生の頃は遠足や校外学習で何度も高尾山の辺りに行った事があるのだ。そのため場所も大体分かってしまった。まあ分かったところで活用できやしないのだが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。
それはともかく、他に当てもないし、ここは一か八か高尾山に行ってみようではないか。いかにも女が好きそうな高級外車に乗っていたし、可能性はそう低くもないだろう。
俺たちはすぐに近くの駅へ走った。
京王高尾線の終点、高尾山口駅に俺たちが到着した時には、夕陽が沈みかかっていた。天気は晴朗にして風弱し、夜景を見るにはもってこいだろう。
駅から歩いて、自慢話から推測される夜景スポットへ向かった。
何しろ山なので、暗くなってくると歩きにくくてかなわない。俺はナップザックから懐中電灯を取り出して足元を照らした。
そうして歩いているうちに日が沈み、それに引っ張り出されるように大きな満月が上がると、月光が道路を照らしてくれて歩き易くなった。月明かりとはこんなに明るいものなのか、と俺は少しばかり感銘を受けた。
オナバル言うところの夜景スポットは、小高い丘の上の野原で、視界を妨げる森の木々がすっぱりと途切れている場所の筈だ。記憶を頼りにそこへ辿り着くと、まさにその特等席に月明かりを浴びて一台のセダンが停まっているではないか。その向こうには、なるほど見事な夜景が広がっている。
懐中電灯を消して近付いていくと、まさしくオナバルのセダンだった。車内は真っ暗だが、中に人がいる。きっと夜景を楽しんでいるのだろう。
不意に車内灯が点灯した。夜景タイムは終了か。明りに照らされて、運転席のオナバルと、助手席の女がはっきり見えた。
俺は思わず息を呑んだ。相手の女は――鷹浜さんではないか! うーん。
俺はガックリきて脱力してしまった。見なけりゃ良かったとまで思った。
やがてオナバルと鷹浜さんは少しずつ近付いて行き、腹立たしくも接吻を交わしたのだ。そのままオナバルが鷹浜さんに覆いかぶさるような恰好になったのを見て、俺は頭を抱えた。
ちくしょう、あんなオナバルみたいな奴のどこが良いんだ。まあ確かに、それなりに甘いマスクはしているし高級セダン乗り回してるし、何より金持ちではあるが。いやそれよりも鷹浜さんが事に及んでも拒否したり戸惑ったりする事もなく、何なら慣れた様子だったのが一番ショックだ。
「都会の女はすげえなあ……」埼玉出身のベースケが呟く。やかましいわ。
するとまた車内灯が消された。本格的にヤるつもりらしい。ぐぬぬ……。
嫉妬に狂う俺の肩をベースケが叩いた。ベースケは、クルマの後ろに行くぞ、とジェスチャーする。
そうだった、HDTを取り返しに来たのだった、それが第一だと自分に言い聞かせながらベースケに付いてクルマの後部に回り込み、どうにかトランクを開けられないか頑張ってみたがしっかりロックされていてビクともしない。となると、いささか野蛮だが、オナバルを引きずり出してふん縛る以外に方法はないか。しかし、いくら憎きオナバルであっても、イタしてるところを襲撃するのは気が引ける。それこそまさしく極悪人の所業である。
どうしたものか……と思ったまさにその時、トランクの中から何やら甲高い音が聞こえてくるのに気付いた。音は短く一定の周期で繰り返されている。聞き覚えがある音だ――そうだ、これは……HDTの作動音ではないか?
やがてカタカタとトランクから異音が聞こえ出し、続けてクルマ自体が細かく震え始めた。どうして勝手にHDTが動き出したんだろう。クルマの走行時の震動が影響したのだろうか。
トランクの蓋の僅かな隙間が青白く光りだした。トランクの中のHDTが光を発しているのだ。
「これ……ヤバいんじゃないか」
ベースケが後退りしながら言った。俺も全く同意見だったので、じりじりと後ろに下がり始めた途端に、クルマの後部が上下に動き始めた。最初は数センチほどだったが徐々に高さを増し、終いには大きく跳ね出した。
ここに至ってようやく異常を察知したのか、車内から絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。しかしこの状態では助けに行く事もできない。と――。
ボガン!
野球のバットをフルスイングしてドラム缶を殴ったような消魂しい音と同時にトランクが眩い光を放った。
そしてその数秒後、ヒュルヒュルと空を切る音と共に、俺たちの背後に何かが落ちて鈍い音を立てた。振り返ってみると、数メートル先の地面にトランクの蓋が突き刺さっていた。まるで踏み潰した空き缶のようにひしゃげていて、そこから昇る薄い煙が白く光っている。はっとトランクに目を戻すと、光はどんどん強くなっていて正視に耐えないほどになっていた。
やがて跳ねるクルマからパーツがボロボロと落ち始めた。タイヤは破裂し、外装は剥がれ、残った外装の広がった隙間に光が入り込むように見えた。そうして崩壊していったクルマは、もう元の高級車の面影は無く、着々と鉄屑の山へと変化していく。成す術もなく見ているうちに、ドアが壊れ、そこから誰かが這い出してきた。鷹浜さんだ。腰が抜けたようにその場に座り込み、泣き出してしまった。
俺は思わず駆け寄った。ベースケも一瞬遅れて後から付いてきた。
鷹浜さんは上半身裸だった。車内でイタしている最中だったのだから仕方あるまい。幸いパンツはまだ脱がされてないようだ。多少は下ろされてるかも知れないがその辺はスカートの中なので分からなかった。
なかなかのボインで一瞬見とれてしまったが、どうにか理性を取り戻し、ジャンパーを脱いで鷹浜さんの肩に被せた。彼女はそれで初めて俺達の存在に気付いた。
「タ、タケシ君? それにベースケ君も? ……どうして?」
「それは後で説明するよ、まずは逃げよう!」
俺は鷹浜さんの肩を抱いて立たせ、ベースケと共に鷹浜さんを抱えるようにしてその場を離れようとした。
「タケシ! ベースケ! お前らの仕業か! 許さねえぞ!」
すぐ後ろから怒りに燃えたオナバルの声が聞こえた。顔を向けると、シャツをはだけたオナバルがクルマから這い出してくるところだった。それこそ憤怒という言葉がぴったりくる表情だ。
まあ怒りたくなるのは分かる。ただ、俺たちが何かした訳じゃないんだよな……信じてはくれなさそうだが。
「早く逃げた方がいいぞ!」
ベースケが振り向いてオナバルに叫び、手招きした。オナバルはそれも気に食わなかったらしく、何かよく分からない事を大声で喚き散らしながら立ち上がった。
その瞬間、トランクのHDTがあると思しき箇所を中心に、ひときわ強烈な光が発せられたのだ。光は奔流よろしく渦を巻いて、物凄い勢いで夜空を駆け昇った。渦の中心に向かって空気が流れ込む。まるで台風のような暴風に俺たちは身を寄せ合うようにして固まって伏せるのが精一杯だった。
「うわあぁぁぁぁ!」
オナバルの悲鳴が聞こえた。どうにかわずかに一瞬だけ顔を上げると、オナバルが光の渦に巻き込まれてクルマの残骸もろとも空に昇っていく様が影絵のように見えた。
それから数秒だろうか、それとも数分だろうか。気付けば風が止まって静かになり、光の渦も止まっていた。
体を起こして見てみると、オナバルもクルマの残骸も、HDTも消えていた。まるで夢でも見たみたいだ……と言おうとした瞬間、クシャミが出た。
急激に気温が下がり、体が震えて止まらない。さっきまで晴れて月が出ていた夜空が、今は分厚い雲に覆われている。
やがて白い物がひとつ、目の前にフワフワと落ちてきて、鼻の頭に乗った。
冷たっ! こりゃ雪だ。HDTの仕業である事は間違いない。
雪はそれだけに留まらず、次々と量を増して降ってくる。見る見る辺りの草木が雪化粧しだした。これはいけない、ぼんやりしてたら凍えてしまう。慌ててその場を逃げ出し、高尾山口駅に向かった。
突然の大雪に高尾山口駅も大パニックになっていた。電車は当然運休で、駅の構内にストーブが出された。駅は俺たちのように雪から逃れてきた人たちで一杯だ。配られた毛布に三人で包まり、一夜を過ごした。
翌朝、駅の明かり取りの窓から射す朝日で目が覚めた。おかしな恰好で座ったまま寝ていたので体が痛い。そっと毛布から抜け出して、身体を伸ばした。駅の構内にいる人達は皆寝ているようだ。俺は、ベースケたちを残して、外の様子を見に行ってみる事にした。
駅から一歩外に出ると恐ろしく寒かった。体が引き締まり、みぞおちの辺りがぎゅっと上に押し上げられる。思わず鳥肌の立つ腕を抱えて縮こまった。
朝日はつい先ほど昇り始めたばかり、といった感じだった。雪はすっかり降り止んで青空が広がっている。見渡す限り銀世界に低い太陽の光が反射してキラキラとしていた。
と、後ろから毛布が俺の肩に被せられた。ベースケと鷹浜さんがいつの間にか起きていて、俺の元に来てくれたのだった。そしてまた三人で毛布に包まって銀世界を見た。傍から見れば三つ首のテルテル坊主のような恰好だったろうが、そんな事はどうでも良かった。
すると――空から光る粒が落ちてきたのだ。
雪ではない、ごく小さな氷の粒だ。氷の粒が朝日を受けて光り輝いている。
「細氷……」ベースケが呟いた。――これがそうなのか。名前だけは知っていたけど、まさかこんなところで見られるとは。
やがて周囲の空間が金色に輝く細氷の光の粒にすっぽり覆われた。それはそれは幻想的な光景だった。息をするのも忘れて見入った。
実際にはほんの僅かな時間だったと思うが、永遠に続くかのように思えた。
* * *
首都圏一円に降り注いだ季節外れの大雪は、各種交通機関に大混乱を引き起こした。が、その後雪が降り止み気候も夏に戻ったので、二日もしたらすっかり正常に戻ってしまった。
事件の翌日、会合所に警察がガサ入れし、『第三ブント』はそのまま活動を休止した。このままなし崩しに解散となるだろう。
オナバルはどうにか死なずに済んだ。光の渦に巻き込まれたショックで記憶障害を起こし、現場の近くを彷徨っていたところを地元の消防団が見付け、保護したらしい。ただ、保護された後すぐに警察が逮捕した。ムササンに不法侵入してHDTを盗み出し、関東一円の交通を麻痺させたテロの張本人とされたのだ。
俺とベースケと鷹浜さんはガサ入れ後に簡単な事情聴取を受けた程度で済んだ。『第三ブント』の中では比較的新参の下っ端だったのもあるし、オナバルが記憶障害なのをいい事に取り調べで誘導され、在る事無い事自白したため俺たちには嫌疑が及ばなかったらしい。
ただ、オナバルにとって幸いな事に、奴の実家は旧財閥系の複合企業体のトップなのだった。検察、警察、政治家、マスコミとのコネがフル活用され、うやむやにされた挙句、最終的にはすっかり揉み消されてしまった。
細氷を見た後の俺たちは、午後になって恐る恐る動き出した京王線に乗って、それぞれ帰った。
駅前にタクシーも来ていたのだが、鷹浜さんは持っていたハンドバッグがクルマごと光の渦に巻き込まれたため一文無しで、貧乏な俺たちにはタクシー代なんて捻出できる筈もない。それでもどうにか鷹浜さんの電車賃くらいは出せた。ベースケと折半でだが。
ベースケは気を使って、途中下車してしまった。鷹浜さんを送っていけ、という事らしい。ベースケのやつ意外とそういう粋な真似ができるのだな、とその時初めて知った。
二人になった道中だが、鷹浜さんとは本当に他愛のない話をするばかりだった。そうして電車を乗り継いで辿り着いた鷹浜さんの家は、山の手の立派な屋敷だった。
お茶でも飲んでいかないかという鷹浜さんの誘いを固辞し、俺は門の前で鷹浜さんと別れて駅へ戻った。翌日、その話をベースケにすると、「何カッコつけてんだよ」と呆れられてしまった。
でも、いいのだ。何と言うか、あの細氷を見た瞬間、俺の中で何かが変わった。
毒気が抜けた、というのはちょっと違うかもしれないけど、それが一番ぴったりな気がする。鷹浜さんにしたって、前から本気で口説こうとか付き合おうとか考えていた訳じゃないんじゃないか?とさえ思えた。『第三ブント』に参加した事もそうだけど、言ってみれば、これまでは何につけてもフワフワしてた。それがあの瞬間を機にガッチリ固まった感じなのだ。目からウロコが落ちたとでも言おうか。
そんな訳で俺は心を入れ替えて翌日から講義に出席する事を決意した。久しぶりに教室に現れた俺を見て友人たちは驚いたようだった。まあ今からだと皆と一緒に卒業するには単位が足りないかもしれないが、それでもいいさ。
真面目に大学に通いだしてから数日経った。
講義の後、ベースケと共に学内連絡掲示板を見に行くと、先に来ていた友人の一人が「お前ら呼び出されてんぞ」と一枚の貼紙を指差した。学務課が貼り出したものだ。
そんな文の下に、俺とベースケの名前がはっきりと書かれている。日付を見ると今日貼り出されたようだ。
俺とベースケは顔を見合わせた。どう考えてもHDTの件だろう。研究室に忍び込んだ時、確かに教授に見られた筈なのだから。
しかし、俺の心中に逃げ出す選択肢は無かった。ベースケも同じだ。なら、あとは出たとこ勝負だ。
すぐに研究棟へ向かった。
* * *
研究棟二階、中田山研究室前。俺たちが忍び込んだ日以来だ。
ドアをノックし、一呼吸置いて聞こえた「どうぞ」の声に応じて入室した。入口の真ん前に応接セットが設置されている。ここまでは以前見学(の体で偵察)した時と同じだ。しかし前回とは違う点が一つある。
応接用の長椅子に、スーツ姿の一人の女性――細面の美人だ――が座っていたのだ。誰だろう……どこかで見た事がある気がする、そう思っていると、横に立つベースケがはっと息を呑んだ。知ってる人か?
「ベースケ君、タケシ君、ご機嫌よう」彼女は座ったまま笑顔を向けた。その声で俺も、その女性が誰だか分かった。
ホエギツネ――柄木つねほ女史ではないか。
メガネはかけておらず、化粧はちゃんとしているし、ひっつめ髪は下ろされて整えられ、艶々としている。会合所で吠えてたイメージとはまるで間逆の印象だ。驚き過ぎて声が出ない。ただパクパクと口が動くだけだ。
「よう。来たね、お二人さん」
中田山教授が実験室と書かれたドアから出て来た。
「さあ、座って座って。コーヒー淹れるよ」そう言って教授は俺たちを、ホエギツネの向かいの長椅子に座らせた。その上でコーヒーメーカーから紙コップにコーヒーを注ぎ、僕らの前に置くと自身はホエギツネの隣に座った。
「君たちは、彼女の事はよく知っているよね」教授の言葉に俺たちは肯く事しか出来なかった。そして続く教授の言葉で開いた口が塞がらなくなった。
「『柄木つねほ』は偽名なんだ。本名は七川貴美。実は僕の娘でね……と言っても分かれた女房との間の子供なんだけど。でも関係は悪くないんだよ。こうして二人で『仕事』をするくらいだからね。」
教授の言葉を受けて、ホエギツネならぬ七川貴美女史が話し出した。
「私がT大生っていうのはウソ。でも半分は本当かな。T大の卒業生だから。若く見えるでしょう?」彼女はそう言って微笑んだ。あの、俺たちがホエギツネ呼ばわりしていた面影は全くない。
「『第三ブント』に関しては結成当初から公安が懸念をしていてね。廻りまわって私が潜入して工作する事になったの。T大を卒業したのは大分前だし、そこそこ学生数も多いから、幸い疑われる事もなかったわ。変装もしてたしね。で、今回問題視されたのが創設メンバーの兵後寛一なの」
兵後って、つまりヒョーロク……? あんな情け無い奴が?
「それは韜晦。本性を隠して、出来るだけ大人しくして、機会を伺っていたのよ。
兵後の両親も活動家で、過激派との繋がりも深かったの。学生グループの『第三ブント』がパーマネントな会合所を設けられたのも兵後の親のコネクションがあったからよ。兵後と、彼に繋がる過激派グループは『第三ブント』を使って騒ぎを起こして、その混乱に乗じて大規模なテロを行おうと企んでいたの。実際会合所のガサ入れと同時に彼の家にも捜査が入って、爆弾や火炎瓶なんかが押収されてるわ。そのまま芋づる式に過激派を一網打尽にできて公安はホクホクよ。
あ、私は警察とか公権力の類とは一線引いた、第三者だから、そこのところは誤解しないでね」
彼女は数年前にT大法学部を首席で卒業し、それと同時に(彼女言うところの)よろず調査会社を起ち上げたのだという。中田山教授、そして彼女の母と再婚した継父が出資し、役員として名を連ね、さらにそれぞれが持つコネクションもあって商売は順調らしい。継父というのが何者なのか訊ねてみたが、知らない方が身のためだとして教えてはくれなかった。
「潜入してメンバーを精査した結果から肋谷君――あなたたちはオナバルって呼んでたわね――を利用する事を決めて、機会を窺っていたの。彼には可哀相だけど、犠牲にしてもダメージが少ないから。知っての通り彼の家も色々コネがあるのでね。実際揉み消されちゃったでしょ?
そのうちにあなたたちが入ってきて、じきに肋谷君と反目し合うようになったので、これを活用した作戦を立てた訳。あなたたちがムササン生だったのも良かったわ。父の出向してる大学なんだもの。都合が良すぎて驚いちゃった」
はっとした表情でベースケが言った。
「つ、つまり、HDTを盗ませたのも計画のうちっていう事ですか?」
「もちろんそうよ。HDTについて書かれた新聞を渡したでしょう? もしあなたたちがHDTの記事に気付かなければサジェストするつもりだったけど、思った以上に自分たちで考えて動いてくれて本当に助かった。もちろん尻を叩く必要はあったけどね」
「でも、随分タイミング良く新聞記事になりましたね」俺がそう訊ねると彼女は笑った。
「あの新聞は偽造品。よく出来ていたでしょう。結構お金がかかったのよ」
研究室に容易に忍び込めたのも、研究室で教授が寝ていたのも、大学からまんまと逃げ果せたのも全部計画通り。目撃者となった中田山教授はオナバルの人相だけを証言したという。
俺はまた開いた口が塞がらなくなってしまった。
「盗んだHDTを肋谷君に強奪させるように仕向けたのも私。本当なら適当なところでHDTを起動させて一騒ぎ起こして、あとは警察の出番……というシナリオだったんだけど、まさかそのまま鷹浜さんとデートに行くとは思わなかったわ。加えてHDTがあのタイミングで勝手に起動し、あまつさえ暴走してしまった事、これらは本当に誤算だったの。私もまだまだね。結果として肋谷君を危険にさらしてしまったし……」
「いや、試作品とは言え、脆弱な部分に気付けなかったのは僕の落ち度だよ」中田山教授が頭を掻いた。
「でも、あなたたちがしっかりリカバリーしてくれたから感謝してるのよ、本当に。鷹浜さんの保護までしてくれたのは実際すごいと思うわ。私は表立っては動けないから、公安捜査員からの定期連絡を聞いててやきもきしちゃった」
「捜査員、てことは……全て監視されてたのか……」ベースケが呻いた。
「ごめんね、ベースケ君。その通りなの。本当にどうにもならないと判断されたら捜査員が動く手筈になっていたんだけど、その必要は無かったわ。……あ、今はもう監視対象から外れているから安心してね」
結局のところ、俺たちは七川女史の掌の上で転がされてたという訳なのだった。俺もベースケもすっかり参ってしまった。
「こうして何もかも種明かしをしたのは、あなたたちが中途半端に関わって内情を知っているからなの。あなたたちから情報が漏れると困るから、ちゃんと納得してもらって、その上で口を噤んでもらおうと思ってね」……何だかちょっと物騒な感じになってきたぞ。
俺たちの様子から不安を感じ取ったのか、慌てて中田山教授が割って入った。
「いやいや、誤解しないでくれ。何かしようって訳じゃない。取引しないか?」
取引……?
「君たち来年からのゼミはまだ決まっていないんだろう? 僕のゼミに来れば、専門科目の単位は保証しよう。あ、これまでに落とした一般教養科目の単位については救えないから、そこは自分で何とかしてくれよ」
「断れば……?」
「何故か試験の成績が振るわなくなったり、レポートが行方不明になったりするかもしれないわ。それに、ずっと誰かに見張られている気がして仕方なくなってしまうかもしれない」
七川女史がいたずらっぽく答える。教授が笑って言い添えた。
「脅すつもりはないんだよ。ただ、僕はHDTを完成させたいだけなんだ。一号機は暴走して宇宙の果てにすっ飛んで行ってしまったから、また試作品から作らなくちゃならない。だから今は猫の手でも借りたいくらいでね。今回の働きを見てると、君たち案外優秀なようだからね、どうだろう、手伝ってもらえないだろうか?」
俺もベースケも、すぐに同じ結論へ至った。取引成立だ。
* * *
その後、俺とベースケは中田山ゼミでHDTや時空歪曲効果について学び、研究を行った。もちろん相応に苦労したし、これまでの人生で一番勉強した。だが比較的自由にやらせてもらえたし、たまに七川女史の『仕事』の手伝いをする事もあったりで、俺たちの学生生活はなかなかに充実した楽しいものとなった。
俺はサボりで落とした単位が響いて留年し、卒業は一年遅れたが、その分余計に中田山教授の研究に関わる事が出来たので、それはそれで良かったと思っている。ただ、肝心のHDTは、その後次から次へと問題が出て『地球温暖化の切り札』には未だに至っていないというのが現状だ。しかし成果がない訳ではない。
それは俺が卒業論文のために作ったHDT-Lというもので、LはLite、つまり簡易型である事を示している。通常のHDTよりもずっと低性能だが、その分安定して動く。扱い易く、安全性も高い自信作だ。
こいつは今、喫茶オーカワのカウンターの下で、看板メニュー『細氷コーヒー』製造機として元気に稼動している。
<了>