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[ショートショート]裂罅(れっか)

 その日、高野たかのは朝早くから地元の総合病院を訪れ、開院と同時に受付に走ると精神科の受診を取り付けて自らの異常を訴えた。
「体の中に何かが居るのです。そいつはてのひらを割り拡げて、中からこちらを覗くのです」
 担当となった唐木崎からきざき医師は一通り高野の訴えを聞き、彼が差し出す両の掌を見てみたが、傷一つ無い。
「確かに今は何も無いのですが、この掌がパックリと開くのです。そしてその中からギラギラとした二つの目が私を見るのです」
 高野は真剣だった。

「――切創や割れ目、隙間等に対する恐怖症かとも思いましたが、対象が存在しないんですよね」
 唐木崎は精神科のカンファレンスで高野の件を報告した。
「彼自身は現実にそういう事象が起こっていると強く思ってます。ただ、同時に自身の考えがおかしい事も自覚しているのが興味深いです。自発的に精神科を受診しに来たんですからね。――あ、薬物や飲酒ですか? 血液と尿を検査しましたがその線は無いですね。ひとまずは統合失調症と判断するのが妥当と判断し、エビリファイを処方して経過観察としました」
 この報告と結論に関しては特に反論や意見等もなく、カンファレンスはそのまま滞りなく進行して終了した。
 が、会議室から出た所で医局部長の弥上やがみが唐木崎を呼び止めたのだ。
 彼女は数年前に管理職に抜擢されてから現場に出る事はほとんど無くなったが、元々精神科が専門であり、論文も高く評価されている。
「さっきの報告にあった高野って患者、“裂罅れっか妄想”かもしれないわ。少し気を付けてみて」
「レッカ?妄想……ですか。恥ずかしながら初めて聞きました」唐木崎は目をしばたたかせた。
「裂罅――簡単に言うと割れ目や裂け目の事ね――が体に生じるという妄想よ。大学院にいた時に一回だけ診た事があるんだけど、かなり珍しい症例なの。私も興味があるから、お手数なんだけど報告を上げてくれるかしら」
 弥上部長にはまだまだ探究心が残っているのか……頭が下がる思いで、唐木崎は承諾した。もし実際にそんな珍しい症例だったなら自分のキャリアにもなる。悪い話じゃない。
 それから唐木崎は手を代え品を代え治療を試み続けた。しかし、高野の妄想はひどくなる一方だった。
 体の中に居る何かは、今や彼の体中を徘徊はいかいし、気まぐれに体の何処かを割って外を覗く。不思議な事に割れた部分から血が出る事はなく、割れ目の中は真っ暗で目だけがギラギラしているのだと高野は語った。
 やがて高野は自らの体に傷を付け始めた。最初は爪、そのうち刃物で。体の中に居る何かを引っ張り出そうとしたのだ。
 自傷行為に及んではもう経過観察などと言ってはいられない。唐木崎はすぐに高野を説得して緊急入院させる事を決めた。
 病棟での高野は至って大人しく、ごく正常に見えた。弥上部長のアドバイスに従って新しく処方した薬が効いたのか妄想に悩む様子も無くなり唐木崎は安堵した。しかしそれが油断を生んだ事は否めない。
 異変は突然訪れた。偶然にも唐木崎が夜勤の晩の事だ。
「唐木崎先生! 高野さんが大変です!」看護士の声に叩き起こされた。高野が急に苦しみだしたという。
 仮眠室を飛び出し高野の許へ駆け付けると、彼は病室の真ん中で呻き、のたうち回っていた。
 唐木崎がそばまで行くと、高野は震えながら唐木崎の白衣の袖にすがり付いた。
「せ、先生……私はもう駄目です……。体の中のあいつがまた動き出したんです。もう耐えられない……あいつは私を乗っ取るつもりなんだ……」
 見れば高野は体中に血を滲ませている。爪でむしったのだろう。
ぅぎぁああっ!」突然叫び声を上げたかと思うと、高野は驚くべき速さで唐木崎の白衣の胸ポケットに入っていたペンを奪い取り、同時に彼を突き飛ばした。不意を突かれた唐木崎は為す術無く床に倒れた。
どこにいるッ! 出て来いッ!
 高野は泣き喚きながら自らの体へ手当たり次第にペンを突き立て、引き裂いた。腕、胸、腹……たちまち噴き出す鮮血が床を染める。
 最後にペンは彼の左頸動脈に突き刺さり、それは一気に喉笛を経由して右頸動脈まで達した。
 高野はそこで力尽き、倒れ伏した。血の海が止め処なく広がり続けた。

 凄惨極まる事件に病院中が大騒ぎとなり、翌朝から唐木崎は報告書の作成にかかりきりとなった。他にも面倒が山積みだが弥上部長が積極的に動いてくれると明言してくれたのが救いだった。
 唐木崎から報告書を受け取った弥上は、彼が疲労困憊し、またショックを受けている事を案じて直ちに帰って休むよう命じた。

*  *  *

 唐木崎が退出した執務室に弥上独り。
 溜息混じりに机上の両拳を緩く開けば、掌に突如一条の切れ目が生じ、それが見る間に拡がって裂罅を成す。
「仕方ないわ。高野は適応出来なかった、それだけの事よ」
 弥上の言葉に呼応して裂罅の奥の暗闇から何者かがぎらりと光る眼差しを彼女に向けた。
 次は上手くやれよと言わんばかりに。

<了>

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kengpong
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