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[短編小説] 気晴らし
時間貸の駐車場に停めた営業車に辿り着き、白以秀介は嘆息した。
営業車の窓ガラスに写るのは、吊るしの背広にくたびれたワイシャツと緩めたネクタイ、そしてそれらに包まれた冴えない中年男。いつもの張り付いたような愛想笑いは影も形もなく、ただでさえ貧相な見てくれが余計に貧相さを増している。
そんな自分を見た瞬間、むくむくと咽喉の奥から黒いものが湧き上がってきた。
「どうしてこっちが尻拭いしなくちゃならねえんだッ!」
大声で吐き出し、拳を高々と上げて営業車の屋根に振り下ろす。拳を叩き付けられた屋根は意外なほど大きな音を立てた。
駐車場の外まで響いたその声と音は、ちょうど目の前の歩道を通りかかった年配の女性を一瞬ビクリと硬直させた。女性はちらりと白以を見てすぐに視線を逸らし、そそくさと去っていった。さらに、その後ろを歩いていたらしい若者が、ダボダボしたパーカーのフード越しにこちらを向いて立っているのが見えた。
ばつの悪い思いと苛立ちを抱えながら運転席に座った。ドアを閉めエンジンをかけると途端に電子音が車内に鳴り響く。舌打ちしながらシートベルトを締めると、腹にかかったベルトが下腹部に溜まったむかつきを増幅させた。
駐車場から営業車を出し、海沿いの幹線道路を走らせた。大きな湾沿いに開けた海の景色は普通なら心が和むものなのだが、今日の白以の精神状態では無理だった。
白以は、食品、それも主に海産物を取り扱う商社の営業マンだ。この辺りの地域を担当エリアとしている。
大した人口もない、田舎の代名詞のような県の、そのまた田舎と目される海に面した西部の地域。都会に生まれ育った白以には、漁協も魚市場も問屋も食品加工工場も、その他担当する全てが旧態然として見える。
事件は今朝起こった。突然の電話で呼び出されたのだ。大手の食品加工会社、大事な取引先からのクレームだった。
飛んで行って話を聞くと明らかに先方の発注ミスだった。が、こちらに非があると押し切られ、短納期での納品と値引きを約束せざるを得なかった。確かにこちらも確認を怠った事は認めねばならないが、それにしてもひどい。だが下手にもめて取引を打ち切られては大損害だ。向こうもそれを分かっていて、強気な態度に出るのだ。
「くそっ、これだから田舎者は……」
粗雑にカーラジオのスイッチを入れると、流行りの女性アイドルグループの軽快な音楽が流れだした。ファン層を広げるためか、人数が多く、下は小学生から上は二十代後半と年齢層も幅広い。実のところ白以もまたこのグループは好もしく思っていた。
しかし、いかに好きなアイドルの歌が流れているとは言ってもやはり気持ちは晴れないのだった。何しろこのあと営業所に帰って所長に報告しなければならないのだ。
所長のねちねちとした説教を聞かされた後は商品の手配だ。それもかなりの短納期での仕入れと加工、そして返品の要請を、無理を承知で方々に頭を下げて回らねばならない。問屋の担当者にはまた嫌味を言われるだろう。漁協長にはひどくどやしつけられるに違いない。しかも、どれだけ苦労して頑張っても赤字になるのだ。これはつまり今月の営業成績も最下位が確定する事を意味する。
これで何ヶ月連続でビリだ? まあ何ヶ月目だろうと月末の営業会議で吊し上げられる事に変わりはないのだが。
「くそっ! くそっ! くそが! くそが!」
白以の口から出るのは悪態のみだった。アイドルの歌も右から左に抜けていくばかりでまともに聞く事ができない。ストレスで胃がむかむかしてくる。幸いもうすぐ昼休みの時間だ、昼食にかこつけてどこかで休もう。
多少なりとも気分を変えようと思い立ち、いつもの道を外れてみる事にした。カーナビの地図を見ると、すぐ近くに低い丘があり、その頂上に公園がある事が分かった。丘の周りは田畑と家屋が半々に広がる郊外の長閑な場所のようだ。出先では路上駐車した営業車の中で食事をとる事が多いのだが、たまにはこういう場所で昼食をとるのも良かろう。
すると、そこにちょうど良く弁当屋を見付けたので立ち寄った。買ったのはハンバーグ弁当と缶コーヒー。少し待つ事にはなったが、出来立てのハンバーグが食べられるのだから文句はない。
ハンバーグは白以の大好物だ。いかにも肉を食べているという実感がある。口いっぱいに肉汁が広がるのもいい。同じ肉でもビーフステーキやトンカツなどでは駄目なのだ。あれらは硬すぎる。脂身は別だが。
店を出た白以は口笛を吹き始めた。さっきラジオで流れたアイドルグループの曲の、最も耳に付く小学生メンバーのパートだ。大好物のハンバーグで少し気が晴れてきたのか、足取りも何だか軽くなったようだ。歩道を横切る際、パーカーのフードを目深に被った若者とぶつかりそうになったが軽やかに躱し、路肩に停めた営業車に戻った。
丘を目指してハンドルを切ると同時に歌が終わり、この番組のラジオパーソナリティであろう二人の男女が話し始めた。
このラジオ局は地域のコミュニティーFMを名乗っているだけあって、どこそこで祭りが開かれるだの、何とかいうショッピングセンターでイベントがあるだのといった話題が中心だった。
『……城址公園での、エスニックフードフェア、楽しみですね。見た事もない料理が色々あるみたいですからね、是非行ってみてください。私も行ってみようかな、なんて思ってます。えーと、他には何か話題とかってあります?』
『そういえば、ここのところ、特に県西部で行方不明者が多いらしいんですよ。お年寄りの徘徊がほとんどですけど、若い人が急に失踪した、なんて噂も聞くんですよね。あとは小さい子供を狙った犯罪が増えていると聞きました』
『あ、それに関しては県警から注意喚起情報が来てます。小さなお子さん、特に女の子が襲われる被害が県西部で多く報告されてるとの事ですね。声かけ事案も増えているようです。私も母親なんで他人事じゃないですね』
『そうですよね。どうか皆さんお気を付けください……』
「へっ、物騒なこった。だけどこんな田舎の警察じゃそう捕まえられまいよ」白以はひとり言ちた。ラジオのお喋りは続いたが、もう関心を失くしていた。そんな事よりハンバーグだ、もうすぐハンバーグにありつける。
数分の後、白以の駆る営業車は丘の上の公園に到着していた。公園といっても隅に簡素な物置小屋が一つ建っているきりで遊具の類は何もなく、広場と言った方が正確だろう。何基かのベンチが広場の中央に向かって設置されている。雑木林と草薮に囲まれており視界が遮られて眺めはあまり良いとは言えないが日陰が多く過ごしやすそうだ。晴れて爽やかな気候だったが、時間帯のせいか人影はなく、ひっそりとしていた。
「いい場所を見付けたな。静かだし、ひと気もない」
ちょうど木陰に位置するベンチに陣取り、ビニール袋からハンバーグ弁当を取り出した。発泡スチロールの弁当容器から膝へ温もりが伝わってくる。蓋を開けると、ぷうんと甘みがかった肉の香りが鼻をくすぐる。口の中に涎が湧く。思わず笑みが浮かぶ。割り箸がパチンと音を立てる。
白以はすぐさまハンバーグに割り箸を突き立てると、それを開いて割れ目を作った。ハンバーグの中央に開いた割れ目から肉汁が染み出す。思わず白以は弁当容器を顔まで持ち上げ、その割れ目に舌を差し入れるようにしてペチャペチャと音を立てて肉汁を舐め、胸一杯に肉の香りをたたえた蒸気を吸い込んだ。行儀が良い行為とはお世辞にも言えないが、どうせこの広場には誰もいないのだ、構う事はない。さらに弁当容器に顔をくっつけるようにして、直接ハンバーグに齧りついて頬張り、肉の旨みを堪能しながら咀嚼する。
ようやく満足して、弁当容器を下ろすと口の周りはおろか鼻の頭まで肉汁とソースにまみれてしまっていた。膝の上の食べかけのハンバーグ弁当を見ながら、顔をハンカチで拭うと、再びハンバーグに割り箸を突き立てて残りを割り、ゆっくりと味わいながらハンバーグだけを全て食べると、義務を果たすように米飯と付け合せの野菜を平らげ、最後にコーヒーを開けて口を付けた。あの弁当屋は当たりだったな、美味いハンバーグだった。
肉を食べる事、それがまさに白以の気晴らしなのだった。多少のむしゃくしゃは肉を食べれば雲霧消散する。
今飲んでいるコーヒーを空ければ昼食の時間は終わりだ。じきに昼休みも終わる。そう思った途端に仕事の記憶が甦ってきた。
「……ホタテ、アンコウ、キンメ……他には何だったっけ? それに加工はどこで?」
押し寄せてきた現実に、白以は頭を掻きむしった。
「ああッ! いやだッ! これ以上考えたら押し潰されちまう! やめだ、やめだ!」
頭を抱え、顔を伏せ、硬く締まった粘土質の地面を見つめる。幾匹かの黒蟻が忙しなく這い回っていた。気晴らしが足りない。心が気晴らしを求めている。上手い事気晴らしが出来たなら、きっと上手くいく。
しばらくして、ようやく顔を上げると、広場の向こう側に一人の子供がいるのが目に入った。いつの間に来たのか――顔を伏せていたし、この先に待ち受ける面倒事に頭が一杯だったのもあって、まるで気付かなかった。
色白でおかっぱ頭の小さな女の子だ。ショートパンツにTシャツ、ズック靴。近所に住んでいる子だろう。小学校が終わって遊びに来たのだろうか。それにしては他の子がやってくる様子はない。
じきに女児は地面の上をぴょんぴょんと跳ねだした。友達が来るまでの暇潰しか、一人で石蹴りかケンパの類を始めたようだ。
「本当にいい場所を見付けたな。静かだし、ひと気もない」
白以は音もなく立ち上がると、ベンチに空の弁当容器を残し、ゆっくりと歩き出した。その顔には笑みが浮かんでいる。それはハンバーグ弁当を開けた時と同じ笑みだった。
「気晴らしにはやっぱり『肉』だね」白以はそう呟き、小さく舌なめずりした。
さっきのハンバーグ弁当の記憶――香りや味、食感が脳裏に甦った。やがてその記憶に別の記憶が重なり、そこから生れた妄想に白以の頭は支配された。
妄想の中で白以は女児に声をかけた。気を引いて油断したところを捕まえ、茂みに引っ張り込んだ。騒ぐようならぶちのめせばいいだけだ。それで大人しくならなかった子供はいない。白以は草むらで女児の服を剥ぎ取り、中に隠されている白くて柔らかな肌にかぶりついた。肩も背中も胸にも尻にも白以の歯形が刻まれた。汗と埃の混じった甘酸っぱい匂いを堪能した。無理矢理両腿を開いて『肉』の割れ目を味わい、陰茎を割れ目に突き立てた。突き立てながら首を絞めた。華奢な首筋がゴキリと鈍い音を立てるのと同時に射精した。無上の快楽だ。これだからやめられない――。
白以の陰茎はこれ以上ないほど硬く怒張し、スラックスの前部にその形を浮かび上がらせた。口中に止めどもなく湧く唾を何度も飲み込んだ。
女児は背を向けたまま、まだ飛び跳ねている。近付いていく白以には気付いていないようだ。それをいい事に白以は女児の真後ろまで歩み寄った。
「き、君、ちょっといいかな?」
興奮で少しばかり上擦った声で話しかけながら、女児の肩に手をかけた。が――。
「な、なんだ……?」
手をかけた女児の肩の感触が明らかにおかしかった。ひどく柔らかく、あるべき骨が無いように思えた。その途端、くるりと女児が振り向いた。
「あっ!」白以は思わず声を上げた。
女児の顔は目も鼻も口もない、のっぺらぼう――。
次の瞬間、女児と白以を中心に、直径およそ五メートルほどの黒い円形の穴が地面に開いた。
逃げる間もなく、投げ出されるように白以は穴に落ちた。落ちる白以には全てがスローモーションに感じた。
僅かに日の射す穴の奥には幾つかの光る点があり、中央部にはより暗い空間に繋がっている。ギラリと白いものが陽光を反射した。
あれは……牙か? つまり、あの暗い空間は口? ならば、あの光る点は目か?
そのまま口の中に落ちていくと途端にバクンと顎が閉じ暗闇に閉じ込められたその刹那――目の前に幾度も閃光が走った。
* * *
気付くと白以は元の広場に横たわっていた。
「な、何だったんだ……」
恐る恐る上体を起こして周りを見たが、あの黒い穴はどこにもない。
「あいつは暗愚蚓龍の仲間で、ツリジムグリってやつさ。本来は冥界の住民なんだが、たまにこっちに来ちまうんだ。地中で待ち伏せして、疑似餌でおびき寄せる。まあ、アンタに分かりやすく言えばアンコウみたいなもんだな」
驚いて振り向くと、そこに誰かが立っていた。スニーカーにデニムパンツ、ダボダボのパーカーを着てフードを目深に被った若い男――いや、少年と言った方が正しいか。
相手はずけずけと大人びた口調で続けた。
「獲物の思考を感じ取って、疑似餌の形を変えるんだ――アンタ好みの女の子だったろ? つまりまんまと罠にかかったって訳さ。オイタはほどほどにな」
「オ、オイタ……? な、なぜそんな事……お前、何者なんだ?」白以の声は震えていた。
「おいおい、俺が引っ張り上げてやったんだぜ。まずはお礼を言ってほしいところだけどなァ……まァ、いいか。俺が何者かってのを簡単に説明すると、閻魔王の眷属である同生天の、そのまた眷属だ。要するに下っ端さ」
閻魔? 眷属? 訳の分からない事ばかり言うガキだ――白以は徐々に落ち着きを取り戻してきたが、同時に苛立ちも覚えた。しかもこいつ俺の『気晴らし』の事を知っているのか? 何故だ? どこまで知っている?
「アンタの細かい罪状に興味はない。その辺は俺の仕事じゃないもんでね」少年は白以の思考を見透かしたように言った。
「アンタはこれから冥界に送られる。そして、閻魔王の裁きを受けるんだ。まあ地獄行きは免れられないだろうがね」
「地獄だと? 馬鹿馬鹿しい! 俺は仕事があるんだ、帰らせてもらう!」
「それは無理だ」
「ど、どういう事だ?」
そこで白以は、自分の全身がぼんやりとして、透き通っている事に気付いた。下半身の方へ行くほどより透き通り方が増し、足首から下に至っては完全に消えてしまっている。
「身体はツリジムグリに全部食われたよ。この世では失踪したって事になって終わりかな」
「そ、そんな……。じゃあ俺はもう……」
「ああ、そういう事さ。放っといたら迷っちまう恐れがあったんでね、面倒だけど手を出さざるを得なかったんだ。きちんと裁きを受けてもらわなくちゃならないからね。本当ならこの世でも裁きを受けるべきだったんだろうが……まあ、アンタは今日ここで死ぬ運命だったからなァ、仕方ない」
その言葉に白以は全身を震わせた。
「死ぬ運命?」
「ああそうさ。浄玻璃鏡ってのが地獄にはあってね、それが死ぬ運命にある奴、つまりアンタみたいのを写して教えてくれるんだ。ただ死に方までは写してくれないのが玉に瑕。大抵はちゃんと三途の川まで来るんだけど、稀にアンタみたいな事があるからね。犯罪者の死に様を確かめて、きちんと冥界に、つまり裁きの場に導くのが俺の役目って訳」
そこで少年は、はっと何かを思い出したような顔をした。
「またお喋りし過ぎちまった。あんまり亡者と長話すると怒られちまうんだよ。だから悪いが、話はこれで終わりだ。他に何か聞きたけりゃ三途の川の奪衣婆にでも尋ねてくれ」
「い、いやだ! 助けてくれ、頼む!」白以は叫びながら目の前の少年に縋り付こうとしたが、その手は少年の身体をすり抜け、もはや触る事もできない。
そんな白以を一顧だにせず、少年は広げた右の掌を高く上げた。
「獄卒!」
途端に座り込む白以の周囲の地面を割って、毛むくじゃらで赤く屈強な腕が何本も突き出たかと思うと、その長い爪を生やした大きな手がたちまち白以の全身を掴まえた。
「や、やめてくれえ――」
白以は獄卒どもの腕を振りほどこうと必死に暴れたが、無論その剛力には逆らえず、悲鳴もろとも地面の下に引きずり込まれていく。その様を少年は冷やかに眺め続けた。
「いやだ、助けてくれ、やめてくれ……ってか」
少年は、ふん、と鼻を鳴らした。
「アンタが殺った子たちも同じ事を言いたかったんだぜ」
白以を飲み込むと割れた地面はたちまち元通りとなり、広場には静けさが戻った。もうそこで何かがあったような痕跡はひとつもない。
少年は徐にスマートフォンを取り出すと耳に当てて話し出した。本来彼らにスマートフォンは不要である。これはこの世に溶け込むための、形だけのものだ。
「同生天さま、白以秀介の件、終わりました……え? もう一人の方ですか? あー、これから向かうところです。はいはい、分かってますって。それじゃまたあとで。はーい」
話を終えると、少年はスマートフォンをしまい、頭を掻いた。
「あーあ、従者使いが荒いんだからなァ、まったく」ぼやきつつ踵を返す。すぐに次の任地へ行かねばならない。
しかし、「おっと、忘れるところだった」少年は足を止めた。
その場で振り返り、姿勢を正して呼吸を整えると、幾つかの印を両手で結びながら呪文を唱え始めた。
――オン・ノウラク・サンマバザラ・センダマウンタラタ・カン!
「よし、これでツリジムグリの奴、元の住処に帰るだろ」
少年は満足気に頷いた。見上げると青空に雲がひとつ浮かんでいる。少年にはこの青空で充分だった。
「じゃ、行っかァ!」晴れ晴れとした声と共に再び向き直り、一呼吸置いて広場の周りに茂る木々に向かって駆け出し、跳躍した。
ひと飛びに梢まで達した少年は、すかさず樹頭を蹴るとその勢いのまま飛び出し、青空の遥か彼方へと消えていった。
<了>
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