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[短編小説] 駄々を捏ねる
ただならぬ人声にミナは顔を上げた。それまでは商店街の石畳と、黒いスカート、そして交互に顔を出す黒いパンプスしか見えていなかった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ! おにんぎょうさんがいいっ、おにんぎょうさんがいいっ!」
声の主は小さな女の子だった。ミナの前方十メートルほどのところで、真っ赤な顔をして目から涙を溢れさせ、母親と思しき女性の腕の中で、もがいていた。
やがて女の子は母親の手を振りほどき、よたよたと駆け出した。靴が片方脱げてしまったがお構いなしだ。しかし、すぐに母親に捕まってしまった。
「おにんぎょうさんがいいっ! う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛っ!」
全身の力を振り絞るようにして声を上げているせいか、その声は潰れ、掠れて、まるで風邪を引いた時のようなガラガラ声だ。それにもかまわず女の子はさらに大きな声で号泣するのだった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ! お゛に゛ん゛きょ゛う゛さ゛ん゛か゛い゛い゛ぃぃっ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ!」
見たところ大人しそうな母親は、これ以上どうしたら良いのか分からないといった表情で、必死に宥めようとしている。女の子は道路に突っ伏し、身悶えしながら泣き叫ぶ。
そこに居合わせた通行人たちは一様に、その騒ぎの方へ一瞬注意を向け、すぐに何事も無かったかのように視線を元に戻した。
ミナもまた思わず立ち止まり、その様子をまじまじと見てしまった。しかし、失礼ではないかと思い直して、他の通行人たちと同様何事もなかったような振りをして歩き出し、道端で攻防する母子を通り越したのだった。
そこから何軒か先に、玩具店が建っていた。ショーウィンドーには大人向けの模型、男児向けのロボットや自動車といった玩具に混じって、色とりどりの可愛らしい着せ替え人形や縫いぐるみが並んでいた。それも、ちょうどさっきの女の子の目の高さの辺りだ。
きっとここを通りがかった時に心奪われてしまったのだろう。欲しくて欲しくてしょうがなくなってしまったのだろう。その気持ちをどうにか分かって欲しかったのだろう。
そう思うと、何故か少し鼻の辺りがツンとして、涙が込み上げてきた。
さっき、あんなにも泣いたばかりだというのに。
――そのペンダント、いつも見るよね。欲しい?
よくデートに出掛けた街のアクセサリーショップの前で、拓也がそう言ってくれたのが思い出された。そんな時、ミナは慌てて否定するのが常なのだった。
「う、ううん、違うの。ちょっと可愛いなって思っただけ……」
嘘だった。本当はすごく欲しかった。見る度にそれを身に付ける自分の姿を想像していた。拓也はそれを察してくれていた。でも私なんかには似合わない、そう思っていた。
それほど高額なものでもない、きっと欲しいと言えば買ってくれただろう。しかしミナは言わなかった。いや、言えなかった。
もしかしたら無邪気に何でも欲しがって見せた方が可愛気があったかもしれない。男慣れしている友人などはよくカレシにおねだりしていて、そのカレシは様々なものを喜んで買ってくれるという。私には真似できない、ミナはそう思った。
思えば子供の頃からそうだった。欲しいものは沢山あった。友達が持っていた可愛い消しゴムや鉛筆、リボン飾りの付いたヘアーゴム、キャラクターの描かれた鞄、人気のマンガ、ピンク色の熊の縫いぐるみ、エトセトラ、エトセトラ……。
欲しい物を言うと、その度に何かと理由を付けて否定された。色気付いてと馬鹿にされた。我慢したら褒められた。気付けば「欲しい」と言えなくなっていた。そしてそのまま大人になっていた。
あの女の子のように駄々を捏ねた事なんてあっただろうか――そんな事を思いながらミナは商店街を通り抜けた。
商店街を抜け、さらにその先の住宅街を通り抜ければ海に出る。地元の人しか知らない小さな砂浜だ。海水浴場とされてはいないが、夏には泳ぎに来る人もいる。ミナ自身は海水浴をする事などはなかったが、海を見るのは好きだった。この砂浜には拓也と共に来て海を眺めたものだ。この街に住んでいた子供の頃よく遊びに来ていたのだと拓也は言った。
そう、この鬱蒼とした砂よけの松林の細い道を通り抜けるのだ。落ちた松葉の積もった道が進むにつれて次第に砂がちになっていく。砂に足を取られて、ふらりとよろける。拓也がミナの手を取る。気をつけて、と笑う。
大好きだった――そう思うとまた涙がにじんで目の前が歪んだ。さっと目を拭った。その先に松林の出口があった。
松林を抜けると凪いだ海が広がっていた。どんよりとした雲の切れ間から夕日が手足を伸ばして、空を、雲を、海を、波を、ひと気のない砂浜を、それら全てを橙色に染めていた。
気候の良い季節はとうに過ぎており、風は冷たかったが、暖色に染まる光景は何だか暖かく感じた。ここからの夕暮れが綺麗なのだと初めて連れてきてくれた時の事をミナは思い出した。決して美男子ではなかったが、心の綺麗な人だった。そんな拓也の負担になるのが不安で、嫌われるのが怖くて、やっぱり欲しい物が欲しいと言えなかった。
ミナは波打ち際まで歩を進めた。往き来する波がパンプスを濡らす。
「――本当は、もっと甘えたかったんだよ、わたし」
でも、出来なかった。拓也はよく遠慮しないでと言ってくれた。でも、出来なかった。心に打ち込まれた楔を抜く事は簡単ではなかった。それでも必死に心を開こうと努力をした。拓也の温かさに報いたかった――。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
我知らず叫んでいた。同時に涙が溢れた。その場に頽れ、砂に膝を突いた。両手で顔を覆うと、手の平は涙でしとどに濡れた。
さっき出会った女の子と同じくらいの年頃に戻ったようだった。駄々を捏ねて泣き叫んだ。抑え付けてきた感情が解き放たれ、自然に行動が起こった。
「拓也がいいっ! た゛く゛や゛が゛い゛い゛ーっ!」
膝も、喪服のスカートも、パンプスも洗われるまま、全身に力をこめ声を枯らして咽び泣いた。
両の目から溢れ続ける涙が顔を覆った両手からもこぼれ落ちた。
引く波がこぼれた涙と膝の下の砂を浚っていく。
「……わたしも、連れてってよ……」
波は何も答えず静かに去った。
不帰の人へと涙を届けるように。
<了>
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