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[短編小説] 杞人天憂

 いつものように一日が始まる。夜明けの時間を迎えると空は徐々に明るくなり、やがて皆が目を覚ます。それぞれの住居から人々が吐き出され、それぞれの職場へと向かう。昼になれば昼食をとり、夕方になれば住居へ戻る。
 冴えない下級官吏アキオも同様に、いつもと同じように目を覚まし、職場である中央官庁街へ向かった。彼もまた、職場に入れば仕事をし、昼になれば昼食をとり、また仕事をして独身寮に戻る、そんな変わらぬ毎日を送るのだ。
 クコ――それがこの国の名だ。中心部には天を衝くような塔が据えられている。塔はこの国の元首である総統の官邸だ。それを取り囲むように議事堂や中央官庁街が設けられている。ここに多くの職員が勤め、行政を担っているのだ。
 やがて官庁街はいつも通りに昼を迎えた。庁舎群の各所に設けられた巨大な食堂に職員たちが集う。クコの食料供給は厳に管理されており、全てが配給制となっている。
 食堂に出向いたアキオが配給カウンターの列に並ぼうとすると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、別部署に勤めるベリンダだった。
「何だか元気がなさそうね、アキオ」
 ベリンダの言葉はアキオにとって意外なものではなかった。手にしたステンレスのトレーには、頬がこけ目の下にはくまを湛えた自分の顔が映っている。
「ああ、最近よく眠れなくてね。……眠ると決まって悪夢を見るんだ」アキオはそう言って力なく笑った。
 ベリンダとは同期入庁で、仕事の合間に顔を合わせれば親しく会話を交わす間柄だ。ただ、同期ではあるとは言っても二人には大分差がある。ベリンダは社交的で有能、また美人という事もあってか部署内外に広く交友があり、庁内での地位を着々と築きつつある。対称的にアキオは内向的な性格であり、外見も地味の昼行灯、自己アピールも苦手で同期はおろか後輩にも遅れをとっている。
 列は順調に進み、やがてアキオとベリンダの番が回ってきた。カウンターの向こうの配膳係が皿をトレイに載せる。皿にはブロック状の栄養食が二つ。一歩進むと、今度は椀が載せられた。椀には一見すると具の無いスープが入っている。昼食の配給はこれが全てだ。ブロックもスープも計算され尽くした完全食であり、これだけで充分過ぎるほどの栄養とカロリーが補給できる。
 最後にスプーンを渡されて、アキオとベリンダは列から開放された。その先にはテーブルが連なっている。が、二人がそこへ向かった時、突然食堂が小刻みに揺れ始めた。小さな地震が発生したのだ。しかし食堂にいる誰もが、お構いなしに昼食をとっている。地震は一年ほど前に始まり、以降少なくとも日に一度は発生しているのだが、大した揺れでもなく、また何か被害が出る訳でもないので、皆すっかり慣れてしまったのだった。
 ベリンダは席につくと、対面のアキオに話しかけた。
「悪夢って言ってたわね……どんな夢を見るの?」
「うん……空と地面が崩壊するという夢なんだ。空にヒビが入ったかと思うと、ガラガラと崩れて落ちてくるんだよ。地面にも同じように大きなヒビが入って崩れて、そこに落ちてしまうんだ」
「へえ、必ず見るの? 毎晩?」ベリンダは興味深そうな風で訊ねた。
「ああ、そうさ。見ている時は現実としか思えなくて、夜中に目が覚めるんだ。夢かと思って寝ると、また見る。それでまた目が覚めて……毎晩その繰り返しだよ。ここのところずっとさ」
「それはきついわね」
 アキオはスープしか口にせず、それも少しずつしか口に運ばなかった。その間にベリンダは昼食を全て済ませてしまった。
「ああ、もうこんな時間!」壁に掛けられた時計が目に入った瞬間、ベリンダは飛び上がるように立ち上がった。
「明日の議会の準備をしなくちゃならなくて。すまないけど、これで失礼させてもらうわ。……夢の事だけど、あまりひどいようなら病院で診てもらった方がいいわよ。私にも遠慮なく相談してね、友達なんだから」
 そそくさと立ち去るベリンダの後姿を見送りながらアキオはスープを飲み干した。
「友達か……」
 ベリンダは親切で、よくしてくれるが、あくまで友達止まりなのだ。
 そろそろアキオも結婚を考える歳だが、どうせならベリンダに結婚を承諾してもらい、結婚申請書を出したいと思っている。だが、勇気が湧かなかった。しかしこのままでは、その密かな望みは叶わずに終わってしまう。ある年齢までに、互いに同意した結婚相手が決まらなければ、国が決めた相手と結婚しなければならない。それがクコの法律だ。ただ、それは決して不幸な事ではない。むしろそうして家庭を営んでいる国民の方が多いし、その大多数が幸せに生きている事もアキオは知っている。しかし……。
 そのまま昼休み明けのチャイムが鳴るまでその場に座り続けた。最後にスープをもう一口だけ啜ると、溜息混じりに席を立った。

 翌日の午後、アキオは小休止と気分転換を兼ねて庁舎の廊下に出た。窓から空を見上げると、どんよりとした灰色だった。
 と、幾人ものけたたましい話し声が廊下に響いた。その中でも一際大きく特徴的な声は、アキオの耳にもはっきりと聞こえた。
「ははは、ベリンダくん、君の答弁書にはいつも助けられているよ。総統ナンバーワンにも良い報告ができそうだ。これからも頼んだよ」
 この声は評議会の中でも長老格の一人、チェスナット氏だ。どうやら彼の派閥の一行が議会を終えて戻るところらしい。その場に佇み彼らを眺めていると、ベリンダがアキオに気付き、こちらにやってきた。
「君は随分な大物に気に入られているんだな」
 アキオの言葉にベリンダはかぶりを振った。
「たまたまよ。ここだけの話、あのお爺ちゃんの仕事は面倒くさいだけなのよね。その上スケベなものだから、これ幸いと皆がわたしに押し付けるの、ご機嫌が取れると思ってね。それで余計にお爺ちゃんとばかり仕事する事になってしまうって訳。お尻を触ろうとする手を叩くのばっかり上手くなっちゃったわ。それはそうと――」
 ベリンダはアキオの顔をまっすぐに見ながら言葉を続けた。
「――昨日よりもひどくなってない? まるで病人みたいな顔色じゃないの」
 その通り、アキオの容貌はまさに病人の一歩手前といった様相を呈していた。
「眠れないの?」ベリンダの言葉にアキオは肯く。
「そうなんだ。昨晩も悪夢を見て何度も目が覚めて、気付いたら朝になってたんだ」
 アキオは力なく笑う。
「悪夢を見て目が覚めてを何回も繰り返しているうちに、何だか怖くて眠れなくなってしまうのさ……はは、バカみたいだろう?」
「それは病気よ」ベリンダは真顔で返した。
「今日はもう早退して病院に行きなさいよ。いい病院を教えるわ。保険が効くからタダみたいな値段で診てもらえるから、ね、必ず行って!」
 アキオは弱々しい笑顔を作って見せた。
「ありがとう。心配してくれて嬉しいよ。この後仕事が一段落したら行く。……でも一つ聞いて欲しい事があるんだ」
「何?」
 アキオは少し言い淀み、しかしすぐに意を決したように言った。
「僕はこの夢の内容が本当に起こるんじゃないかと思えてならないんだ」
「何ですって?」ベリンダは訊き返した。表情にも声にも、ありありと訝しむ気持ちがにじみ出ている。
「バカみたいに思うかもしれないけど、こう毎晩同じ夢を見てると、本当に空や地面が崩壊するんじゃないかと思えてならなくなってきたんだ。おかげで仕事にも身が入らなくてね」
「そんな精神状態じゃ仕事に身が入らなくて当然よ。仕事は休みましょう。さすがに誰も文句を言わないわ」
「いや、ベリンダ、聞いてくれ。あながち妄想でもないかも知れないんだ」
 そう言ってアキオは上着のポケットから小石のようなものを取り出した。
「今朝、宿舎からここへ来る時に、何か割れるような音がして立ち止まったら、こいつが落ちてきたんだ」
 差し出されたそれは、一方の側面は砕けたようにデコボコしているのに対し、もう一方は非常に滑らかでキラキラと光を反射する。コンクリートとも金属ともつかない不思議な材質だ。
「どうだい、こんなの見たことないだろう? 空が崩れ出したんじゃないかな」
 アキオは珍しく、少し興奮したように話した。しかしベリンダは懐疑的な眼差しでそれを眺め、すぐにアキオへ突き戻した。
「確かに初めて見る物だけど、近くの家かビルの建材が老朽化して剥がれ落ちたんじゃない? これが空の上から、つまり真上から落ちてくるのをはっきりと見たの?」
「いや、どこかに近くに落ちて、それが跳ね返って足元に転がってきたんだ……」
「ほら、やっぱり。そもそも空が崩れるなんておかしいわ。小学校の理科でやったでしょう? 空っていうのは大気の層よ。つまり空気なんだから崩れようがない」
 いつものアキオなら、こう言われればすぐに自説を引っ込めるのだが、今日は強情だった。
「大気はそうかもしれないけど、星や太陽はどうだろう。星のかけらかもしれない」
「星っていうのは大気の向こうの宇宙空間に浮いているのよ、それも遥か彼方にね。かけらが落ちてくる訳がないわ」
「じゃあ、よく地震が起こるのはどうだ? 大地が崩れる前兆じゃないか?」
「地震と言ったってごく小さな揺ればかりでしょう。そもそもこの地面が崩れるなんて事がある訳がないわ。崩れるためには地下が空洞になっている必要があるじゃない。でも地面には土がぎっしり詰まっているのよ。もちろん地下鉄や地下道なんかはあるけれども、耐震基準を満たして作られているんだから、アキオがイメージするような大崩壊が起こる事は有り得ないわよ」
 ベリンダの自信たっぷりな言いように、アキオは普段どおりの弱気な人格に戻り、黙ってしまった。しかし納得していないのは一目で見て取れる。ベリンダは笑いながら続けた。
「もう、よしてよ。まるで昔話の『杞憂』にそっくりじゃない。小学校の国語の時間にやったでしょ、覚えてる? 天地が崩れるって心配する人の話。そんな何千年も前の人と同じような心配をするなんてどうかしてるわ」
「いや、しかし……」そこまで言ったとき、アキオの視界がグラリと揺れた。
 おや、また地震かな……と思った次の瞬間、目の前の景色がグニャリと歪み、すぐに暗闇に包まれた。
「どうしたの? アキオ! ちょっと、しっかりして!」
 耳元でベリンダの声がしたが、すぐに遠くなっていった。

 気が付くと、アキオは殺風景な部屋に据えられたベッドで横になっていた。
「ああ、目が覚めたのね、良かった」
 ベッドのすぐ脇にベリンダがいた。そしてその横には見知らぬ白衣の男性が立っている。
「よっぽど衰弱していたのね。わたしと道路で話している最中に倒れたのよ、あなた」
 ベリンダが救急車を呼び、そのまま病院に担ぎ込まれたのだという。続けて、彼の横に立つ白衣の男を紹介された。
「彼はダニッチと言って、この病院の医師なの。学部は違うけど大学の同期でね。うまく取り計らってもらえたのよ。こんな立派な病院にはなかなか見てもらえないんだから、彼にお礼を言ってね」
 ダニッチが前に進み出た。互いに笑顔で握手を交わすと、ダニッチは手にしたクリップボードを見ながら説明を始めた。
「ベリンダから夢や不眠の話は聞いてます。気を失っている間に簡単に脳波を見させてもらったのですが、やはり正常とは言い難いですね。CTやMRIなどで精密検査をさせてください」
 あまりの急な話に驚いたが、あれよあれよと言う間に入院の手続きをさせられ、病院中の検査室を行ったり来たりする事となってしまった。
 仕事が残っているのが心残りだったのだが、既にベリンダが全て手配してくれていた。
「あなたのところの課長には、わたしが訳を話して病欠にしてもらったから、安心して検査を受けて」
 アキオはベリンダの手回しの良さにすっかり関心してしまった。持つべきものは優秀な同期か、良い友人である。それが同一人物ならなお良しだ。
 ひと通りの検査を終えると、今度は分厚い壁に囲まれた真新しい検査室へ連れて行かれた。検査室は二つに分けられており、壁に嵌ったガラス窓から、その奥に巨大な検査機器らしきものが設置されているのが見えた。窓の手前側は操作室で、所狭しとモニターやスイッチ類が並ぶコントロールパネルの前に幾人もの技師が陣取っている。
 ダニッチは検査機器の寝台にアキオを横たわらせると、数本のバンドで彼を固定し、すぐに操作室に引っ込んでいった。
 首を捻ってガラス窓を見ると、窓の向こうは薄暗くなっていてよく見えない。しかしダニッチの顔だけは何かの光に照らされて見えた。彼は誰かと話をしている。目を凝らしてみると、どうもベリンダのようだ。
 途端に電子音が鳴り響いた。どうやら検査が開始される合図らしい。
 滑らかに寝台が動き、トンネル状になった検査機器の中に寝台が飲み込まれた。トンネルの中で巨大なスキャナーがアキオの全身に覆いかぶさり、唸るような音と共に赤や緑のレーザー光が体中を這い回る。いつまで続くのだろう……と思い始めた頃に音と光が止まり、寝台が引き出され、戒めが解かれた。やれやれと顔を上げると、操作室にはもうベリンダの姿はなかった。
 病室に戻るとじきにダニッチが現れた。手にしたクリップボードに挟まれた紙には輪切りになったアキオの脳の画像や、よく分からない表やグラフの類が印刷されている。ダニッチはそれを見せながら説明をし(専門的過ぎてアキオにはほとんど分からなかったが)、最後にこう告げた。
「極めて珍しい、興味深い状態です。少し長期に渡ってしまうかもしれないので申し訳ないのですが、もうしばらく検査のため入院していただきたいのです」
 ダニッチの表情を見るに、病気の治療のためと言うよりは探究心を満たしたいのが主という風ではあったが、この厄介な悪夢と不眠を解決するためだ。藁にもすがる思いで承諾する旨を伝えた。
 それを聞いたダニッチは満足げに肯くと、クリップボードのプリントをめくった。するとそこには周到に書類が準備してあるのだった。さすが大病院の医師は僕と違って仕事が出来るわい……などと思いつつアキオは書類にサインを書いた。

 それから幾日も検査は続いた。あのものものしい検査機械へ日に何度も入れられ、同じような検査が繰り返されるのだった。ダニッチによれば色々と条件を変えてスキャンしているのだという。
 相変わらず夢は見るが、処方される薬が良いのか、徐々に夢を見る頻度が減っていた。それにつれて気分も良くなってきている。どうやら快方に向かっているようだ。もうすっかり病院にも慣れ、検査室と病室の間は一人で往き来するようになっていた。
 今日もまた、いつもと同じように検査は終わった。いつもならすぐに病室に戻るのだが、その日は珍しく廊下に設置されたソファーベッドに座るアキオの姿があった。検査がいつになく長引いて疲労を感じたため、検査室に程近いベンチで少し休む事にしたのだ。
 と、廊下に靴音が響いたのに顔を上げると、検査室に誰かが入っていったのが見えた。そのまま何の気なしに検査室の方を見ていると、再び検査室のドアが開いた。出て来たのはベリンダだった。
 ベリンダはアキオには全く気付かずに、アキオの座るベンチとは反対の方向へ足早に歩き去っていった。声をかける間もなかった。
 それからもうしばらくその場で休み、病室へ戻ろうと席を立った。が、間もなく自室に到着しようかという時に、小さく地面が揺れだしたのだ。
 またいつもの小地震か……と思ったが、揺れは思いのほか長引き、揺れ自体もどんどん強くなっていく。じきに何かが壊れる音や悲鳴がそこら中から聞こえだした。壁にも床にも天井にも亀裂が入り出している。これまで無かった大地震だ。このままでは病院が崩落するかもしれない。アキオは本能的に走り出した。
 これまで非常時の避難経路など考えた事もなかったのだが、非常口らしきドアを開けるとその奥に階段があった。とにかく一階まで下りねばならない、その事だけを思い、見慣れぬ階段を一気に駆け下った。
 非常階段はアキオが思っていたよりもずっと長かったが、とにかく一番下まで降りてみると、一本の通路に繋がっている事が分かった。下った高さを考えると、どうも地下らしい。幅はせいぜい二メートルほど、打ちっ放しのコンクリートで、天井には裸の蛍光灯があるきりの殺風景な通路だ。
 突き当たりのドアを開けると、その先は別の通路に繋がっていた。見渡すと、どちらを向いても果てしなく続いているように見える。かなりの規模だ。今自分が出て来たようなドアがいくつも見えた。つまり、この通路が幹線なのだ。病院どころか官庁街全域を網羅しているのではないだろうか。かなり頑丈に作られているようで、地震の揺れは感じるものの、亀裂はおろか歪みすら生じていない。
 少し様子を探る為に幹線通路を歩いてみたが、どこまで行っても代わり映えがせず、元の階段へのドアが分からなくなってしまったため、仕方なく幹線通路を進む事にした。ドアはいくつもあるが、どこに出るか分からないし、下手に上がって崩落に巻き込まれるかもしれない。もちろん幹線通路の先も未知ではあるが、不思議と何かに導かれるようにアキオは歩き続けた。
 ほどなく幹線通路は行き止まりとなった。そこにあったのは幾重にも折り変えず一本の階段だ。他に進むべき道はない。アキオはその階段を上り始めた。

 どれくらい上っただろうか。途中にドアや出入り口の類はなく、ただ上に向かうだけの階段だ。息が切れ、全身が重たくなった。それでも足を上げ、手すりを掴んで上り続けた。腰を下ろして休みたいという気持ちもあったが、一度そうした後で再び立ち上がれるとは思えず、ペースを落としながらではあるが休まずに上り続けたのだ。
 やがてその苦行も終わりを告げた。階段の頂きに辿り着いたのだ。そこにはたった一つ、扉があるきりだった。そこから突き出すハンドル状の把手を捻り、身体を預けるようにすると、扉は音もなく開いた。その向こうは落ち着いた調度品が設えられた部屋に繋がっていた。正面にある大きな窓から光が射し、アキオは思わず目を細めた。
 目が慣れると、窓際に大きな机があるのが分かった。そしてその机に一人の人物がついているのが分かった。それがこの国の元首であるエスペランザ総統だと気付くのには、ややしばらくかかった。
「やあ、アキオくんだね。話は聞いているよ」
 総統は顔を上げると、穏やかに言った。
「ここは総統官邸の執務室だ。そして今君が通ってきたのは緊急時の連絡通路だよ。どうしてここまで来れたのか、ひとつ聞かせてくれないか」
 アキオは呆気に取られてしばらくは言葉を出そうにも出せなかった。総統は辛抱強くアキオの言葉を待った。
「……正直言って……よく分からないんです。病院で地震が起きて……逃げるために夢中で歩いて……」
「ふむ。それは誰か――もしくは何かに導かれたのではないかね。そんな気はしないかね」
 総統の問いに、アキオはここまでの道のりを思い出してみた。
 言われてみれば確かにそうかもしれない。深く考えず直感に従って歩き続けた。何かに導かれていたと言われても不思議ではない。しかし――。
「――『何に』導かれたのかと、そう思うだろう?」
 まるで見透かしたような総統の言葉だった。
「それは『フレデリーク』だよ、アキオくん」
「ふ、フレデリーク……?」
「うむ。君は初めて聞く名前だろうね。それも当然だ、忘れ去られた名だよ。恒星間航行用宇宙船クコ号の制御用量子コンピュータにプログラミングされた人工知能の愛称だ」
「……恒星間……宇宙船……」
 アキオは混乱していた。しかし、そんな中でも総統の今の発言がこの国の歴史の根幹に関わる事だというのは直感的に分かった。
「つ、つまり……建国にあたって我々の先祖は、ここへ――クコの地へ――宇宙船でやってきたと、そういう事なのですか?」
「いや、違う」
 エスペランザ総統はきっぱりとした口調で答えた。
「この国自体が宇宙船なのだ」

 ――かつて銀河系の辺境に、地球と呼ばれる惑星があった。地球の民は大いに栄え増え続けたのだ、一つの惑星が支えられる限度を超えてね。
 もちろん彼ら――我々の先祖だよ――は手をこまねいていた訳ではない。その解決策として、地球と似た環境の惑星へと移民する方法が考えられた。幸い地球と似た惑星は多数発見されていたからね。しかし大きな問題が立ちはだかっていたのだ。それが『距離』だ。
 宇宙は余りにも広い。地球から移住可能な惑星へは、近いものでも光の速さでさえ何年もかかるほど遠い。しかも光の速さで航行する事は不可能なのだ。どれだけ頑張っても何百年という途方も無い時間がかかる。
 そこで考えられたのが『世代宇宙船』だ。一つの都市、いや国と言ってもよい規模の人数を巨大な宇宙船に積んで出発し、そこで子を産み、育て、世代交代を繰り返しながら目的の星を目指すのだ。
 他に手立ては無かった。それで地球の民は辛抱強く長い年月をかけて世代宇宙船を数隻建造した。そしてそれらは順次地球を旅立ったのだ。このクコもそういった世代宇宙船の一つだったのだよ。誰が名付けたかは知らないが、宇宙船クコ号さ。実に素晴らしいものだよ。多数の人口を支え、地球と似た環境を維持できる施設を備える。空――正確には天井だが――は昼になれば明るく夜になれば暗くなって星空が瞬くし、日によって青空や曇り空を投影する事まで出来るのだ。ずっと同じ天気では精神のバランスを崩す者が出てくるからね。もちろんそれらは何から何まで自動で行われるのだよ。ただし雨は降らない。
 ――なに、雨を知らない? まあそうだろうね。空から水が降ってくるんだよ。地球ではそういう天気もあったのだ、信じられないだろう? クコ号ではご法度だ。水の無駄遣いだからね。私もこの目で見た事はないよ。
 そんなクコ号だが、地球を旅立って以降しばらくは何もかもが順調に運んでいたのだ……たった一つの事故に見舞われるまでね。
 ――そう、事故だ。クコ号は航行中に深刻な事故に見舞われたのさ。今からおよそ千年余り前の事だ。
 その頃にはもう地球を遠く離れた外宇宙を目的の惑星へ向かって一心に進んでいたのだ。移民たちはその中で生まれ、つがい、子を成し、死んでいった。航行は平穏そのものだった。
 しかし、外宇宙には時として、はぐれ者のような小天体が漂っている場合がある。不運な事に、そのはぐれ小天体がクコ号に衝突したのだ。今となってはその小天体が何だったかは不明だが、おそらくは中程度の小惑星だろう。本来ならそういったものを警戒する仕組みがあった筈なのだが、平穏が長く続き過ぎて油断していたのかも知れないね。
 しかし最も不運だったのは、小天体の衝突したのが、クコの艦橋だった事だ。衝突の衝撃でその大部分が木っ端微塵となり制御を失ったクコ号は、当て所もなく宇宙を彷徨う事となったのだ。
 もちろん船内は阿鼻叫喚だ。しかし、艦橋の事故を辛くも逃れ、生き延びた副艦長と乗組員たちが、その混乱とパニックをどうにか収め、クコこそを新天地として生きていく事を定めたのだ。
 この時、副艦長がその立場からリーダーとなった。彼は指導力を発揮してクコの再出発を支え、尽力し、今に繋がる基礎を築き上げのだ。その男の名はミヒャエル・ファン・エスペランザ――そう、私の遠い先祖だよ。
 君は総統の事を『ナンバーワン』と呼ぶ風習があるのは知っているだろう? ナンバーワンとは副艦長の事を指すのだ。艦長の部下の中で序列が一位というような意味合いだよ。当初副艦長がリーダーとなった所から、リーダー――今は総統だが――の愛称かつ敬称として『ナンバーワン』が残ったのだ。
 ところで、さっき小天体が艦橋を直撃した事を不運だったと言ったね。だが実は幸運でもあったのだよ。居住区は奇跡的に全く被害を受けなかったのだからね。居住区の環境維持システムは高度に自動化されているので、余計な事をしなければ居住者の生存は保障される、それも長期間に渡ってね。しかし、宇宙空間の真ん中に漂うばかりで目的の星へ行く事も、地球へ戻る事もできない。実に残酷な運命だ。そうは思わんかね?
 実際絶望に押し潰されて自ら死を選んだものも相当数いたようだ。しかし、葛藤の末、クコの居住者たちは自ら選び取ったのだよ。このクコ号の中で生きていく事をね。
 それまでも居住区の統治は一つの国と同じように運営されていたが、それがさらに推し進められ、完全に国家となった。初代総統はナンバーワン、つまりエスペランザ副艦長が務めた。彼の在位は実に長きに渡り、その間クコの永続的な安定を目指して働き続けた。
 君たちは適齢期となれば国が結婚相手を決める事は知っているだろう。これはクコの人口をある範囲内に留め、社会と環境を維持するための仕組みなのだ。その社会を維持するシステムの一要素として総統職も位置付けられ、初代総統は自らのクローンに総統職を継がせる事を決めたのだ。
 ――ああ、そうだ、私も初代総統のクローンだ。ナンバーワンの遺伝子は総統職として連綿と受け継がれてきた。
 そうして幾世代も重ねるうちに、クコの民はこの地が宇宙船であるという事実すら忘れ去ってしまった。これは一般人も学者も役人も、評議会の連中も同じだ。真の歴史は総統にのみ代々伝えられきたのだ。
 君たちは『クコの外』という概念を持たない。クコの他に国があるのではないかという疑念も持たないし、クコから出ようと思った事すらないだろう。長年に渡って続けられた教育の賜物だよ。クコの民は皆、実に従順だ。
 おっと、それではまるでマインドコントロールされてきたようではないかと不快に思ったかもしれないね。しかし、それはクコ号の住民が自ら選んだ事なのだよ。全ては生きるためだ。宇宙を当て処なく漂流しているという絶望から逃れ、正気を保つためには必要な事だったのだ。
 だから地球の歴史もクコ号についての知識も徹底的に排除された。ただ、全てではない。例えば昔話の『杞憂』だが、これは教科書に載っているのは覚えているだろう? クコの在り様に疑問を抱かせない、つまりプロパガンダには最適だからね。昔話や物語の類は皆そういう基準で残されているのだよ。

 ここまで話して、エスペランザはふうと一つ大きな溜息を吐いた。この機にアキオはエスペランザへ疑問をぶつけた。
「そ、そこまでは分かりました……にわかには信じ難いですが……。でも、なぜ私にそれを話すのですか? それに下級官吏に過ぎない私の事をどうして知っていたのですか?」
 エスペランザは椅子にもたれるように座り直した。
「もっともな疑問だね。これには『フレデリーク』が関係しているのだ。覚えているかね?」
 フレデリーク……恒星間航行用宇宙船クコ号の制御用量子コンピュータにプログラミングされた人工知能……そうエスペランザに言われた事をアキオは思い出した。
「フレデリークは――正確にはフレデリークの入ったコンピュータだが――あの事故の際、艦橋と共に破壊されたと思われていたのだ。しかし確認された訳ではなかった。何しろ艦橋の残骸は宇宙空間に晒されていて近付けないものでね。ところが、最近になってフレデリークが生きているという事が分かったのだよ」

 ――おおよそ一年ほど前のことだ。新型の生体スキャナー、ほら君がここしばらく何度も検査を受けていたあの大きな機械、あれの開発がきっかけだったのだよ。
 あのスキャナーは一種の時空波を使うのだが、偶然とある周波数で患者をスキャンしたときに、不自然な信号を捉えたのだ。ダニッチくんのチームがそれを解析したところ、内容は不明瞭ながらも、どうやらフレデリークからの通信である事が次第に分かってきた。
 どのような仕組みかははっきりとは分からないのだが、フレデリークは艦橋が破壊されて以降、千年もの時間をかけて自己修復をし、時空波を使っての通信を試みていたのだ。面白い事にその時空波は、人間の脳に作用するのだ。スキャナーは脳を介さねばフレデリークからの通信を読み取る事ができない。
 しかし作用には個人差があってね。最初に発見された患者もほんの僅かな感度しかなかったから読み取るには不十分だったのだ。……もう分かってきたろう、アキオくん、君の脳こそがフレデリークからの信号を受信するのに最適だったのだ。
 君が見た悪夢は、偶然ではないんだ。フレデリークからの通信を脳が無意識のうちに解釈して、夢の形で君に見させていたのだ。
 つまり毎日のように君をスキャナーにかけていたのは、フレデリークが何を言おうとしているのかを必死に探っていたのだ。――うむ、そうだ、本当は治療のためではなかった。嘘をついていた事は謝るよ。だがダニッチくんは責めないでくれ。彼も、彼のチームも私の特命を受けて行っていた事なのだから。それに彼らには通信の内容は意味不明だっただろう。報告を受けた私だけが理解できたのだ。――つまり、このクコの終末が近いという事がね。
 驚いたかね? だが何も不思議な事はないのだ。船全体が老朽化して、もう維持するのが困難になってきたという事なのだから。何しろクコ号はもう千年もの間、宇宙空間という厳しい環境を漂っていたのだからね。船内の環境維持システムも同じだけ動き続けてきたのだよ――誰からもメンテナンスされずにね。むしろ今までよく持ち堪えたものだと思う。
 ここ一年小さな地震が頻発していただろう? それは船のあちこちで崩壊が始まっていたからなのだよ。フレデリークは最後の力を振り絞ってそれを警告してくれていたのだ。
 さっき私は、君がフレデリークに導かれたのではないかと言ったね。それについても言っておこう。君の脳に作用したフレデリークの警告は避難経路も含んでいたのさ。それに導かれて君はここまで来たのだ。クコ号に乗船した人々の安全を確保するのはフレデリークの使命の一つだからね。

 ここまで話したところで、再び地面が大きく揺れ始めた。揺れの強さはこれまでを遥かに凌駕しており、さしもの執務室も軋み、そこここが音を立てる。
 アキオは総統に詰め寄った。
「僕がここに――執務室に導かれたという事は、ここから脱出できるという事なのですか? なら他の皆もここから逃がそうとは思わないのですか」
 総統は、悲しげに首を振った。
「クコの人口は百万人あまり。そんな人数をどうやって脱出させるのかね。クコ号がもう一隻必要だよ。つまり、不可能なのだ。もう破滅は避けられないんだ」
「そんな!」
 と、窓の外に雷のような閃光が走った。思わず窓に駆け寄ると、青い空に大きな亀裂が入っていた。何度も閃光が起き、亀裂はどんどん増え、広がっていく。そして亀裂によって細分化された欠片が一つまた一つと地面に向かって落ち始めた。
 落ちる空の破片を追って視線を下げると、官庁街のビルやその向こうの居住区のアパートが傾き、崩れ、立ち込める砂煙の中に沈んでいきつつあるのが見えた。もはや地面も崩れ始めたのだ。
 アキオは息を呑んでその光景を見つめる他はなかった。すると、誰かが執務室の扉をノックした。
「入りたまえ」エスペランザがそれに応える。扉を開けて入ってきたのは――ベリンダ。
「な、なぜ君が……」
 アキオはベリンダと総統を交互に見比べるばかりだった。一方のベリンダは迷わず総統の元まで歩み寄ると、その横に立ち、彼の肩に手を乗せた。
「ベリンダは、私の隠し子なのだ」エスペランザは、肩に置かれたベリンダの手に自らの手を乗せ、語った。
「本当なら私には恋愛などはご法度なのだがね、ただ一度だけ禁を破ってしまった。ベリンダの母は実に素晴らしい女性だったよ……亡くなってしまったがね。元々彼女は私の直属のスパイの一人で、中央官庁の議会や官僚の実情を探らせていたのだよ。ベリンダがその跡を継いで新たな情報源となってくれた。ベリンダのお陰で君を発見できた」
 総統の言葉にベリンダが続けた。
「アキオ、あなたがフレデリークの信号を受信できる体質だと分かったのは偶然だったの。信じてもらえないかも知れないけど、利用したみたいになって申し訳なく思っているのよ。本当にごめんなさい」
 驚きに開いた口が塞がらないでいるうちに、揺れが一段また一段と強まっていく。執務室の壁に据えられた棚から本が落ち、数十キロはあるだろう堂々たるデスクがじりじりとずれ動いた。
「さあ、行きたまえ。この執務室の奥が避難経路だ。非常脱出用ポッドが準備されている。それに乗れば助かるとは限らないが、せっかくフレデリークが導いてくれたのだ、万に一つであってもチャンスを無駄にする事はあるまい」
「では、総統は?」
「私には責任がある。最後までここに残るよ。ナンバーワンとしての矜持だ。それに私はもう長く生きられない。私の大元であるミヒャエルの遺伝子には病原体因子があってね、当然クローンである私にもそいつは受け継がれている。つまり元々長生きできない体質なのだ。そして既に発病している。どちらにしても長くないのさ」
「ああ、お父様……!」ベリンダは涙ぐみ、父の肩を抱いた。
「さあ、ベリンダもお行き。幸いお前には病原体因子は遺伝しなかったのだから、少しでも生きてくれ。……さあ、行くんだ!」
 ベリンダはもう一度だけ強く父を抱き頬にキスすると、意を決してその場を離れた。そのまま奥の本棚に歩み寄ると、中ほどに並べられている本を数冊抜き取る。その後ろに隠されていた操作盤のボタンを幾つか押すと、本棚の脇の壁が四角く割れ、脱出路への入り口が開いたのだった。
「さようなら、お父様」
 ベリンダは最後にそう言って通路に入ろうとしたが、立ち止まって父を一瞥した。エスペランザがそんなベリンダに軽く肯いて応えると、ベリンダは再び向き直り、通路に飛び込んだ。
「アキオ、こっちよ!」
 ベリンダの呼び声で我に返ったように通路へ向かったアキオは、最後に総統に一礼してベリンダに続いた。
 通路の奥は円筒状の部屋になっており、二人がそこに入ると、自動的に天井が開いた。見上げれば空にはひびが入り、広がり続けている。そこでベリンダがアキオの方を向いた。
「アキオ、この先は後戻りできないわ。だから確認しておく。まず、脱出ポッドに乗ったところで宇宙を漂流するのに違いはない。もうひとつ、ポッド自体クコ号と同じく遥か昔の物で充分に機能するかは分からない。それでもいい?」
 アキオは迷わず肯いた。
「ああ、もちろんさ。怖気づいて戻ったところで死ぬだけだし、それでは総統やフレデリークに申し訳ない。ただ……クコの皆を置き去りにして僕らだけ逃げ延びるのは、とても心残りだよ」
 ベリンダは、うつむき加減のアキオの肩を軽く抱いた。
「優しいわね、アキオ。私もすごく悲しい……でも、どうにもならないの。非情に感じるかもしれないけど、今はまず自分たちの心配をしなくちゃ。それにね、地下にも脱出装置が装備されている箇所がある筈なの。もしかしたら助かる人が他にもいるかもしれないわ。それこそ、あなたみたいにフレデリークの通信を受信できた人が導かれるかもしれない」
「ああ、分かっている。他にも脱出できる人がいる事を信じて行くしかない。僕は生き延びる決断をしたんだからね。僕は生きたいんだ、なぜなら……」そこでアキオは言いよどんだ。
「何?」ベリンダが訊き返す。
「いや、やっぱりやめておく。助かったら話すよ。さあ行こう!」
 ベリンダは微笑を返すと、壁に取り付けられたスイッチを押した。するとふわりと二人の体が宙に浮き、空に向かって昇り始めた。
「大丈夫。斥力エレベーターよ」慌てるアキオに、ベリンダが優しく言う。
 落ち着きを取り戻したアキオが周囲を見渡すと、すでにクコの地は一面砂埃に覆われて高い建物――多くが傾いたり崩れたりしている――の頂が見えるばかりだ。空はさらにくずれて、そのさらに上にある巨大な構造物が露出し始めていた。空はアキオが思っていたよりもずっと高いところにかかっており、クコ号の巨大さがようやく実感を持ち始めた。
 やがてエレベーターの昇っていく先、真上の空にぽっかりと丸く穴が開き、二人はその穴に入っていく。そこは幾つかの脱出用ポッドが並んだ格納庫になっていた。しかし、総統が言っていた通り、クコの民全員を乗せるのにはとても間に合わない数しかない。
「脱出用ポッドは一人乗りよ。冷凍睡眠状態コールドスリープで宇宙を漂う事になるわ。ただ、自動追尾装置が装備されているから、はぐれはしない筈よ。さあ乗りましょう」
 ベリンダはそう言いながらも、足を止めて振り向き、ポッドに向かおうとしたアキオの手を取った。
「あなた、本当は私に告白しようと思ったんでしょう?」ベリンダはまっすぐにアキオの目を見た。突然の事にアキオは目を逸らす事もできず、しどろもどろに答えを返す以外になかった。
「わわ、分かっていたんだね……そ、そ、そうなん、だよ……」最後の方は消え入るような声になった。
「アキオ、はっきりと言って。全然聴こえないわ!」ベリンダは少しいたずらっぽい顔をして訊き直す。
 アキオは観念して、目を瞑り、息を吸った。
僕は君の事が好きだ! 愛してる!
 顔を真っ赤にして、半ば叫ぶように言い切ったアキオの唇に、やわらかい物が一瞬だけ触れた。目を瞑ったままだったので、触れたのがベリンダの唇だと分かるのに少し時間がかかった。
 驚いて目を開けると、ベリンダも頬を染めていた。
「もう! やっと言ってくれたのね。本当に引っ込み思案なんだから」
 ベリンダはアキオを抱き締め、頬にキスするとすぐに踵を返し、ポッドに乗り込んだ。
「お互いに生き延びられたら、今の告白に返事するわ。じゃあ、お先に!」
 そう言ってベリンダはポッドのハッチを閉めた。
 アキオは少しの間を置いて隣のポッドに駆け込んだ。ハッチが閉まると、内部の制御装置のインジケーターが色とりどりに瞬き、数秒のうちにポッドが動き出す。加速と振動がしばらく続いたが、じきにそれらは止み、気付けば静寂に包まれていた。ハッチに設けられた小さな覗き窓から外を窺うと、もう宇宙空間に飛び出しているのが分かった。やがてインジケーターが順に消灯し、ポッド内は闇にとざされた。
 もう悪夢を見る事はなかった。

<了>

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kengpong
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