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[ショートショート]非常階段の男
ここのところ健康を気遣ってエレベーターの使用を控えて、その代わり階段を、とりわけ非常階段を毎日上り下りしている。
非常階段と言っても出入りが制限されている訳でもなく、マンション本体から飛び出すように設置されていて眺めが良いので専ら内階段より非常階段を好んで使っているという訳なのだ。
そんなある日、非常階段の二階と三階の間の、踊り場の隅に男がうずくまっているのに出くわした。
驚いたが、通行の邪魔になる訳でもないし、一応このマンションの住人らしいので放っておく事にした。正直面倒に関わりたくない気持ちがあったのは否定できない。
男は翌日になると三階と四階の間に、さらにその翌日には四階と五階の間に移動した。となれば流石に気になってくる。マンションの治安に関わる事なら月に一度の役員会で議題に上げねばならないだろう。
恐る恐る声をかけてみると彼は虚ろな目をこちらに向け、次に力ない笑顔を見せた。とりあえず話は通じそうだ。男は弱々しい声で語り出した。
それによると、彼は本来一階の住人なのだが最近どうにも息苦しくて部屋に居られなくなったのだという。
何故か少しでも高い所の方が息がしやすいらしい。それが日一日とひどくなるため日毎に上階に上がらざるを得ないのだそうだ。
見るからに衰弱している様子なので救急車を呼んだ方が良いだろうかとも思ったのだが、その必要は無いと断られた。それどころかむしろ呼んでもらっては迷惑だとさえ述べ、頑として動こうとしない。
こちらも彼を立ち退かせる権限や法的根拠がある訳ではないし、とりあえず実害も無さそうなので、ひとまず退く事にした。
その次の日は雨だった。非常階段は吹きさらしなので、本来なら内階段を使うべき日だ。ところが踊り場の男がどうにも気になってしまい、わざわざ見に行ってしまった。雨風が吹き付ける非常階段では傘を差すのも一苦労だ。
彼はまた一階層上がって五階と六階の間の踊り場にいた。雨具を着ているのを見ると、一旦部屋に戻ったらしい。
――一階に降りると呼吸困難になるのです。死ぬかと思いましたよ。
彼はそう言って自嘲の笑みを浮かべるのだった。
そんな調子で日毎に階層を上がっていく男だったが、不思議と彼の事は誰も問題にする様子はなかった。
しかしそれも無理からぬ話だ。非常階段を使う者はほとんどいないし、手すりもコンクリートで出来ていて、その陰にうずくまる彼は外からは見えないのだ。もしかしたら彼がそこにいるのを知っているのは私だけかもしれない。
然りとてずっと放置する訳にもいくまい。非常階段に陣取ってもう一週間余り経っている。何か心の病を抱えているのならば無理にでも病院に連れて行くべきではないだろうか。
気付けば彼は最上階の更に上、屋上へ繋がる踊り場に達していた。屋上への入口には施錠されたドアがあるのでそれ以上登る事は出来ない。一体どうするつもりなのか。
やはり無理矢理病院に連れて行かねばならないだろうか。うかうかしているうちに飛び降り自殺でもされてはかなわない、私は何とか連れ戻そうと男に声をかけてみた。
すると彼は鋭い目で睨み、殺す気なのかと私を怒鳴りつけ、直後に激しく咳き込みだした。どうにも息が苦しくて仕方が無いという様子だ。
――ちくしょう、空気が……空気が濃すぎる……俺はもう地上で暮らす事は出来ないんだ。空気に溺れてしまうんだ!
彼はそう言うと、階段を駆け上がっていった。いよいよ飛び降りつもりかもしれない。私は慌てて後を追った。
でも、どうせ登った先は行き止まりだ。捕まえるのは容易いだろう……そんな私の思惑を裏切り、彼は階段の突き当たりにあるドアを易々と開けて屋上に出てしまった。誰かが鍵を掛け忘れたらしい。こんな時に限ってこれだ。これも役員会で議題に上げねばなるまい。
――まだだ、まだ濃い、もっと高く上がらなくては!
彼はそんな事を喚きながら屋上の塔屋に設置された梯子をもの凄い勢いで登り、その屋根に立つ避雷針をまるで木登りするかのように登り出した。流石にそこまで追いかける事は出来ず、私はただその様子を見上げるばかりだった。
――分からないのか? どんどん迫ってきているんだ。辛うじて頭一つ出てるだけだ。これ以上どうしたらいいって言うんだ? あんたは平気なのか?
彼は避雷針の先端にしがみついたまま私に呼びかけた。呼吸は荒く本当に苦しそうだ。
私には全く理解できない。普通に、何の問題も無く呼吸出来る。
彼が精神を患っている事は間違い無かろう。すぐに救急車を呼ばねば。いやレスキュー隊か? ポケットの携帯電話に手を伸ばした瞬間だった。
うう、うぐぅぉぼぅぇっぐあぅっ!
彼は本当に苦しそうな、まるで溺れた時のような音を吐き出し、片手で喉を押さえた。やがて完全に白目を向いて全身が痙攣し、避雷針にしがみついていた腕と両足から力が抜けた。――ああ、落ちる!
ところが、そんな私の常識的な判断を嘲笑うかのように避雷針から離れた彼の身体はまるで水中を浮遊する海月のようにふわりと宙を舞うではないか。私は驚いて声も出なかった。
男は空中を漂いながら、ゆっくりと上昇し、蒼穹と白雲の向こうに消えていった。
数日後、偶然目に入ったテレビニュースが私を驚かせた。
高度約五十キロメートルの成層圏と中間圏の境目、すなわち成層圏界面に人間の死体が漂っているのが発見されたというのだ。
国際宇宙ステーションから観測されたという。あの男ではないかと思ったのだが確認はできなかった。
それから成層圏界面を漂う死体は人種や老若男女の別なく日に日に数を増していると連日報じられるようになった。一説によると既に数千人単位の死体が空に浮かんでいるらしい。もちろん空を見上げても何も見えやしないので実感は湧かないのだが。
最近ではいよいよ国際的な問題にもなってきたようだ。また、空を昇っていく人間(生きているのか死んでいるのかは分からぬが)の姿をテレビや動画投稿サイトでよく見かけるようになった。が、私はあの男以外には直に見聞きした事はない。
本当にそんなに頻繁にあるものだろうか――実際に目にした私でさえそう思うほどだ。
しかし最近空気が文字通り重苦しく感じるようになってきた気もするし、私の周囲でそのような事を漏らす者が増えているのもまた事実なのだ。
<了>
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