日本に馴染みのある中国のトリヴィア

 

「インドのトリヴィア」シリーズから中央ユーラシア史に戻る前に、日本人(若者は?)にも馴染みある中国関連のトリヴィアを今回幾つか。

 

1.城

日本人は、城というと天守閣や本丸などの建物、或いはそれらを囲む城壁を含めそう考えるのが普通であろう。漢語の「城」は本来防塁・城壁自体を指していた。これは「万里の長城」(英語ではGreat Wall)を考えれば分かると思う。平城京や平安京は長安(や洛陽)を模した都邑ということになっているが、日本に城壁で囲まれた都市はなかった。日本の城は城塞又は城堡ということになる。

古くからある西洋の都市は大抵、旧市街、新市街から構成され、旧市街は城壁で囲まれているのが普通である。秀吉の大坂城は総構えと呼ばれるが、その周囲を城壁で囲めば、或いは嘗ての自由都市?堺を城壁で囲めば、城郭都市形態にようになったのかも知れない。


 

2.玄奘三蔵

西遊記でお馴染みの三蔵法師こと玄奘三蔵は、大変な苦労をしてインド・パキスタンへの旅をしたと思っている人が多いと思う。実際は、行く先々の国々・オアシス都市などで歓待され、通訳やガイドを付けてもらったり、講釈をして金銭を得たりの旅だったようである。異国の地などで楽チンな旅とまでは言わないが、当時としてはかなり恵まれた旅行をしたことになる。一方、世界史に登場し、玄奘より遙かに遡る漢の時代に西域を旅することになった張騫(対匈奴戦略のため大月氏に派遣。目的は適わかったが、不明だった西域の多くの有用情報を持ち帰る)は大変な苦労をしている。


 

3.王昭君

中国四大美人(西施 王昭君 貂蝉 楊貴妃、但し。貂蝉は架空の人物)の一人に数えられ、悲劇のヒロインといわれる王昭君。悲劇の理由は匈奴に差し出されたことと、数々のエピソードであろう(エピソードは一々書かないが、皆、事実ではないと言われている)。但し、匈奴を懐柔するため差し出された訳ではない。確かに漢の高祖・劉邦は白登山の戦いで匈奴に破れて恐れをなし、毎年送り物をすること、公主(皇帝の娘)を匈奴の王に嫁がせるなどの約束をして何とか懐柔していた。しかし乍ら王昭君の時代、匈奴は既に分裂・弱体化して漢に敵対する力はなく、匈奴の王が入朝して来て請うて婿になりたいと申し出たため与えたものである。蛇足ながら、熊本城に加藤清正が「昭君乃間」を造り王昭君の絵が描かれていた。いざとなれば秀頼を迎えるための「将軍の間」という説があるが確証無し。

 

オマケ:西洋の城郭都市の名残の市名

ドイツ・・ブルク(ハンブルクなど)

フランス・・ブール(ストラスブールなど)

イギリス・・バラ(エディンバラなど)、ベリー(カンタベリーなど)

スラブ語圏・・グラード(ベオグラードなど)

昭君乃間(熊本城公式HP)


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