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欧州に希望と妄想を与えた東方見聞録

恐らく殆どの方が小学校~高校の間に「マルコ・ポーロの『東方見聞録』で日本は「黄金の国ジパング」として紹介されている」というの主旨のことを習ったのであろう。以前、歴史は新資料発見や研究の進展(+イデオロギー変更でも?)で見直し・変更が行われ、嘗て学んだ世界史の教科書も日本史の教科書も変わっている(変わっていく)ということを書いた。しかし上述のマルコ・ポーロの段は現在の最新の高校世界史(山川『詳説世界史B』)においても同じであった。

<余談>
最初にマルコ・ポーロのことを知ったのは、小学生の時、世界の各地を紹介していく月刊旅行誌の中に「「サマルカンドはとても立派な大都市である」とマルコ・ポーロが『東方見聞録』に書いている」という記事をカラー写真付きで読んだ時である(それ以来、何となくサマルカンドに憧れを持ちつつも訪問は実現していない)。
<補足:サマルカンド>
元はソグド人(イラン系アーリア人)のオアシス都市。後にチムール帝国の首都に。現在はウズベキスタンに属する。

さて、日本人なら誰でも知っていると思う冒頭のことに付き、必ずしもよく知られていないであろうことに幾つか触れたい。

1.「東方見聞録」の元々の書名は不明?
元々の書名が何であったかは不明のようだ(後述するようにオリジナル版はフランス語版とされている。そこに書名がどう書かれていたか?)。後に、『驚異の書』、『世界の記述』、また、『百万(Il Milione)』という書名になった(フランス、イタリア)。高校の世界史教科書では『東方見聞録』の注として『世界の記述』と書いてある。英語では現在『マルコ・ポーロの旅(The Travels of Marco Polo)』が標準のようで『Book of the Marvels of the World and Il Milione』という言い方・・『驚異の書』『世界の記述』、及び『百万』を足したもの?・・もあるようだ。
<補足:百万>
『百万』という意味は、百万長者になった/多いことを何かと百万と書いている/百万のほら話を書いたから/など諸説あり。

『東方見聞録』という日本の書名は、明治期に中学の東洋史教科書で用語として初出し、大正期に書名となったそうだ。フランス語版、イタリア語版、その他で数多の異本(の写本)があるものの、日本訳されているものは概ね標準的なものを対象に訳したと言ってよいと思う(3冊の日本語版が底本としたものを見た限り)。

2. マルコ・ポーロは「書いていない」
これは、冒頭の序を読めばわかるので、読んだ人なら知っていることだが、ジェノバの牢獄に入っていたマルコ・ポーロが、同じ部屋に入っていたピサ出身のルスティッケロという物書き(騎士道文学に心酔?)に口述し、自分=ルスティッケロがそれを筆記したと書いてある。

実際、この物語の一人称=私はルスティッケロであり、私達というのは両名を指している。これだけなら、『古事記』を稗田阿礼が口述し、太安万侶が筆記したのと同じではないかということになるが、実際はルスティッケロが勝手に書いたと想定される処も多いとされている。よって、著者はマルコ・ポーロでなく二人の共著とする(或いはルスティッケロとする)のが妥当と思われる。

ついでにいうと、冒頭の序で「ベネチアのマルコ・ポーロ殿が実際に自分で目にしたことを語ったものである。中には自分で目にしなかったことも含まれてはいるが、その場合も確かな人物から真実として耳にしたのである」という主旨のことを書いてある。「見聞録」という日本語はこれに沿ったものだろう。

<補足:原典はフランス語>
当時イタリアという国はなかったにせよマルコ・ポーロもルスティッケロもイタリア人なのに何故にフランス語版が原典かというと、当時、イタリアは文化的にフランスに対して劣り、フランス語で書くのが普通だったらしい。

3. マルコ・ポーロの二つの出生地と職業
歴史上の有名人や出来事に異説があるのはよくあることで、マルコ・ポーロの生誕の地と言われるところは二カ所ある。一つは勿論ベネチア、もう一つクロアチアのダルマチアである。両地とも自分のところだと主張している。最も、ベネチア共和国が「アドリア海の女王」として覇を唱えていたころ、クロアチア(の一部)はベネチアの領土だったので、マルコがベネチア人というのは正しいと思う。

マルコ・ポーロは商人のように思われているが、実際はキリスト教(ローマ教会)の中国・元朝・・クビライ・カーン時代・・)への使節だったという説が根強くある。実際の記述をみてもそう取られるべき箇所がある。多分、商人だと思われている理由の一つは、マルコより先に中国・元にいった父のニコロとその兄弟マフェオ(マルコの叔父)が商人のように見えるからではないかと思う(マルコは、ニコロが2度目に中国に行った時に元まで帯同。クビライ・カーンに十数年仕えたことになっている)。
○クビライ・カーン(1215-1294)。在位は1260-1294
○マルコ・ポーロ(伝:1254-1324)。旅行期間:伝1271-1295。

【参考】プレスター・ジョン(司祭ジョン)
東方見聞録に「プレスタ―・ジョン」という言わば架空のキリスト教徒君主が出てくる。イスラム勢力が強勢を誇っていた時代、欧州には東方の彼方にプレスター・ジョンという謎のキリスト教君主がいて、東西からイスラム勢(サラセン人)を挟み撃ちにできないかという幻想・妄想があった。これは西洋の色々な本に出てくる。現代の本で言えば、例えばウンベルト・エーコ『パウドリーノ』に登場。

東方見聞録では、プレスター・ジョンはチンギス・カーンと戦い戦死したと書いてある。この人物は、モンゴル族・ケレイト部のトグルール・カンを模しているのではないか?と言われている(ケレイト部に嘗て景教=ネストリウス派が伝播していたため)。
<補足:モンゴル族とモンゴル部>
モンゴル族はモンゴル部、オイラト部、ケレイト部、タタール部など複数の部で構成されていた。チンギス・カーンがいたのがモンゴル部である。西洋では諸般の事由でタタール(部)がモンゴル族の代名詞となってしまった。

【参考:Prester John】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Prester_John
(日本語のウィキペディアは英語版の翻訳)

4. 語源不明なJapanと黄金の国「ジパング」への妄想
西洋に日本が初めて紹介されたのは東方見聞録と言われ、「ジパングがJapanの語源である」という風説?はよく知られているところ。実際は、「グ」は国を意味する中国語の発音(中国語は基本濁音がないので本当は「ク」かも知れない)なので、ジパンがJapanの本当の語源かどうかという問いが正しいと言えよう。

フランス語版はサパンorシパン、イタリア語版でチパンとなっている、即ち本来の東方見聞録にジパングとは出ていない。当時の中国人が日本のことを呼ぶ際、西洋人にどう聞こえたかによるけれど、フランス語もイタリア語も「ジ」が頭に来るというのはあり得ない。調べると、Japanの語源が何かについて諸説あり定説は必ずしも確立していない。その中でも東方見聞録由来という説は一番怪しい。中国北部だと濁音は基本ないので、南部での日本の読み方のような気もする。
<補足>
習近平は拼音(ピンイン)・・現在の中国の標準発音・・ではXí Jìnpíngと
書くが、濁らず、シー・チンピンと発音。

さて、東方見聞録を全部読む必要はない(当時の西洋人には未知のアジアに興味津々で面白かったのかもしれない)と思うが、折角なので日本に関するところだけを見てみると以下のようなことが書いてある(日本に関わる箇所は数ページ)。当然ながらマルコは日本に来ていないので中国で聞いた話である。

①住民の肌は白く礼儀正しい。
②彼らは限りなく金を保有している。大陸から余りに遠いのでこの島を訪れる商人は殆どいないため法外な量の金で溢れている。君主の屋根、窓、床は純金で覆われている。多くの宝石も算出する。
③偶像崇拝である。偶像神はインドと中国(カタイとマンジ)と同じ。
④敵を捕虜した場合、身代金が払わなければ殺して肉を食べる(非常に美味という)。

上記の②が「黄金の国」と言われる由縁である。④は荒唐無稽であろう。

このほかに元寇のことが結構詳しく書かれている。内容はデタラメなものが多いけれども、遠征軍(元と高麗と旧南宋の連合軍)内部で仲違いがあったこと、強風(北風になっている)で大被害をを受けたことなど歴史に合っているところもある。

元寇の挿絵:野分で元の艦隊壊滅

<補足:中国の呼び名のカタイとマンジ>
本では中国の北部をカタイ、南部をマンジと書いている。これは元と南宋が併存していたことの名残だと思う(マンジの首都は杭州と書いてある。杭州は南宋の首都=臨安府だった)。以前も書いたように、ロシアは今でも中国のことをキタイといい、香港の航空会社キャセイパシフィック航空のCathayは何れもカタイと同じで契丹のことを指している。欧州人にとって、契丹が西進して興した西遼(カラ・キタイ)が直接対峙する中国のイメージだったからだろう。

杭州の街並み:ヨーロッパにしか見えない?

5.欧州に希望と妄想を抱かせた『東方見聞録』
マルコ・ポーロのせいか書いたルスティッケロのせいか分からないが、日本だけでなく、東南アジア、北アジア、中央アジアの風俗については荒唐無稽なものも少なくない(例えばチベットの風俗)。現地の人が見たら呆れる・怒るのではないかと思う。しかし乍ら、それが当時の西洋人の半ば奇天烈なアジア観だったのだろう。

「欧州に幻想を抱かせた千夜一夜物語」で書いたことと同様、あらぬ幻想を抱かせることになったが、『千夜一夜』と違うのは、物語ではなく紀行文として扱われていることである。従って、事実(に近いもの)と空想的な話が混在していることになる。

<補足:奇天烈なアジア感の増殖>
オリジナル版の本に挿絵があるはずもないが、後に色々な挿絵が加えられ、風俗に関して荒唐無稽な挿絵が沢山入った。これは『千夜一夜物語』と同様である。

風俗は無視して地誌=地理や物産情報を事実として読めば、西洋人に東方、特にインド以東のアジアへの進出欲を大いにかき立てたことは間違いない。コロンブス(コロン)は持っていた東方見聞録写本に多くの書き込みをしていたとされる(300箇所以上?)が、空想的なところ=風俗などに凡そ興味がなく、地理と産物を対象に書き込みをしていたとされる。即ち、この本がコロンブスの航海欲を駆り立てた役割は大きいと言うことである。

東方見聞録の名誉のために付け加えると、元の決済手段で言わば紙幣に相当する「交鈔」、及び、契丹発祥と言われる大モンゴル帝国の駅伝制度を高く評価しているのは、現在の世界史的にも妥当である。端的に言えば、元朝/モンゴル人に関する記述が一番信頼に足るように思われる。

蛇足乍ら、中国の史書(大元ウルスだけでなく、フレグ・ウルス、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス)にマルコ・ポーロと思しき人物の記載は全くないようだ。マルコ・ポーロは東洋への旅、或いは中国への旅をしていないという説、一人の人物が語った/書いたものではなく色々な風聞の集大成であるという説もある。

『東方見聞録』は大著という程でもないので、眺めた本を紹介する。括弧内は現在の出版年ではなく初出年。
①愛宕松男(1971)『完訳東方見聞録』平凡社
・・日本語訳の古典。注が詳しい
②月村辰雄・久保田勝一(2012)『マルコ・ポーロ東方見聞録』岩波書店
・・原典に近いフランス語版から訳出
③青木富太郎(1978)『東方見聞録』河出書房新社
・・字が大きく文章が見やすい。目次が乏しい(原典は当然目次はない)

入れている挿絵は全て②から転写した。以下は荒唐無稽なものの代表。

スマトラ島の人肉食と礼拝
アンダマン諸島(ベンガル湾の島々)の犬頭人
マアバールはインドの南東部の海岸地帯
チベットの奇妙な婚姻前の娘の処し方

参考:マルコ・ポー想定想定旅行ルート

https://www.reddit.com/r/MapPorn/comments/2vs4dv/the_travels_of_marco_polo_and_his_father_and/#lightbox

https://www.reddit.com/r/MapPorn/comments/1fpz4sw/marco_polos_journey/#lightbox


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