僕がエチオピアに移住した理由
こんにちは。
かわうち(@KENGO_Kawauchi)です。
今日は自分のことをちょっと振り返りたいと思います。
僕はいま株式会社テナアダムという「コンサル・デザイン・プロモーション」の3つの事業を柱とする会社を経営しているのですが、創業した当時、実はアフリカのエチオピアという国に住んでいました。
その時は職業訓練を行う国際NGOを設立するために奔走していたのですが、そのNGOとほぼ同時期に立ち上げたのがいま会社です。
株式会社として行った方がいい事業もあるかもしれない、と念のためつくっておいた会社だったのですが、いまはその念のためにつくった会社が僕の生業になっています…笑
さて今回は、僕がなぜアフリカのエチオピアという国に移住したかについて書いてみたいと思います。
はじめに
まずはじめに、僕のキャリアについて簡単に紹介させていただきます。
2001年 埼玉県立春日部高校 卒業
2005年 立教大学(文学部日本文学科) 卒業
2005-2012年 野村證券株式会社(地方支店→本社人材開発部→本社ウェルスマネジメント部)
2012-2013年 Institute for Strategic Leadership
2013-2015年 エチオピア移住(首都アディスアベバ)
2013年 国際NGO Addis Goh 設立 / 株式会社テナアダム 設立
2015-2017年 埼玉県立春日部高校野球部監督
現在 株式会社テナアダム 代表取締役
このようなキャリアです。
ちなみに大学で文学部に進んだのは、国語の先生になりたかったからです。
ものごごろついた頃からとにかく国語が好きだったこと、そして高校の教員になって、いつかは母校の野球部監督になりたかったことが理由です。
大学を卒業してすぐに教員になっても今の自分では生徒に伝えられることは多くないだろう、だから自分自身が社会に出て、いろいろな経験や学びを得てから教員になるべきだと思っていたので就職の道を選びました。
ちなみに、もともとは3年社会人を頑張って、それから教員になろうと考えていました。
しかしながら、証券そして金融という業界にどっぷりつかることになり、結局はいまも教員の道には進んでいません…。
ただ、母校の野球部の監督になるという夢は叶いました。
教員ではなかったのですが外部監督という形で招聘され、母校の生徒たちと一緒に甲子園を目指す熱い日々を過ごすことはできました。
このあたりは機会があれば書きたいと思います。
高校から社会人まで
この章は少し自慢っぽく聞こえてしまうかもしれませんが、高校から社会人までの人生が後述の『遅い反抗期だったかもしれない』という章に関係してくるのでご容赦くださいm(_ _)m
僕の出身高校は現在、創立120年を超える県立の男子校です。
ちょうど僕が在学中に100周年を迎えた学校で、埼玉県ではトップクラスの進学校です。
高校時代は野球部でキャプテンも務めていました。
甲子園には手が届きませんでしたが、僕の代でもシード校ではあったので、それなりに強いチームでした。
引退するまで朝から晩まで野球漬けの日々だったので、学年での成績順位は下から数えたほうが早いというのが指定席になっていました。
自慢にもなりませんし、野球をしてなくても同じだったと思いますが…笑
最後の夏はベスト8を掛けて鷲宮高校と対戦しましたが惜しくも敗戦。
鷲宮高校のキャプテンだった西谷くんはその後プロ野球選手になりました。
さてさて、そうして3年生の8月から受験勉強をスタートすることになりました。
5ヶ月の受験勉強でとりあえずは六大学のひとつである立教大学の文学部に合格しました。卒業後は野村證券に入社しました。
1ヶ月間の地獄のような集合研修を終え、配属されたのは岐阜支店でした。
富裕層を対象に新規開拓から資産運用までを行う資産管理課という部署で、いわゆる『THE野村の営業』という部隊だったのですが、いま振り返っても自信を持って一生懸命仕事した!と言えるほど仕事に没頭した1年目でした。
野村證券は毎日1位からビリまで全セールスのランキングが出るのですが、同期の中では何度もトップセールスになりました。
それが認められたのか、最年少で人事部門(人材開発部)に異動することになりました。
人材開発部というのは、野村證券およびグループ会社の人材育成方針や育成施作(研修など含めて)の企画立案から実際のファシリテーションまで行ったり、担当部店の新人から拠点長までと育成環境や育成方針についての面談をしたりします。時に採用課のサポートなどで採用面談なども行ったりしていました。
その後、上場企業の創業オーナーなどをクライアントとするウェルスマネジメント部に異動しました。いわゆるプライベートバンキングの部署です。
僕はこの時30歳を迎える年になっていて、そろそろ教育の道に進もうかなと本気で考えるようになっていました。
仕事はもちろん大変でしたが、その分やりがいもありました。
しかし、30歳という年齢を機に教育の道に進むことを決意し、退職しました。
教員になる前にもう少し教育の勉強をしたいと考え、Institute for Strategic Leadership(ISL)という教育機関で修行させてもらいました。
当時のISLの代表で創設者(野田さん)は、おそらく日本で最も高学歴といっても過言ではない人でした。
実際、野田さんより高学歴な日本人にいまも会ったことはありません笑
野田さんはめちゃめちゃ頭が切れる人でしたが、本当に人間味あふれる方で、いまでも尊敬しているし、いろんなことを学ばせてもらいました。
心から感謝しています。
ちなみにISLは教育に携わる一部の方には知られてますが、おそらく知らない人の方が圧倒的に多いと思います。
ISLは日本を代表するような大企業の次期社長候補に1年間かけてMBAを超える全人格的教育を行うという教育機関です。
卒業生の多くは、いまもビジネス界のトップランナーとして活躍されてます。
野田さんは、もともとロンドン大学ビジネススクールやフランスのインシアード大学で教鞭をとっていました。
バブルがはじけた後、このままでは日本はダメになってしまうと強い危機感を感じ、すべてのキャリアを捨てて日本に戻り、立ち上げたのがISLでした。
いざアフリカへ
野田さんには、本当にいろんなことを学ばせてもらいながら働かせていただきました。
野村證券の時より忙しく、半年くらいほぼ休みなく働きました。
ひと区切りついたタイミングで野田さんに『まとめて長いお休みをとっていいよ』と仰っていただき、夏休みと併せて1ヶ月くらいの長期休暇をもらいました。
僕はこんなに長い休みは社会人としてこの先ないだろうと思いました。
人生でいつか一度はアフリカに行ってみたい、と思っていたので、1ヶ月後にドバイから日本に戻るチケットだけ予約してアフリカに飛び立ちました。
ちなみにアフリカに行く直前の数日間で計8本くらいの予防接種を打った記憶があります。両腕パンパンになりました笑
いざアフリカ大陸へ。
でっかいバックパックを背負い日本を飛び立ちました。
UAE、エジプト、エチオピア、ジンバブエ、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ…。アフリカ諸国をいろいろと回りました。
途中で激しく下痢したり、身の危険を感じたり。そんなこんなで、1ヶ月で激痩せしました笑。
世界はこんなにも美しく、こんなにも不公平なのか
そのアフリカでの旅の途中、エチオピアという国に行った時のことでした。
ラリベラという岩窟教会で有名な田舎町でのことです。
僕はそこで、あるひとりの少年に出会いました。
僕が壮大な山並みの景色を眺めながら休んでいると、外国人である僕を物珍しそうに見ながら、彼は僕と少し距離をとって近くに座りました。
おそらく10歳くらいの年頃だったと思います。
壊れかけのサンダルを履き、服も穴だらけでした。
しばらくして彼と僕は話し始めました。
僕は地図や写真を見せてあげながら日本について教えてあげたり、彼はエチオピアやラリベラのことを身振り手振りで教えてくれました。
エチオピアはアフリカで唯一占領を免れた国なので、他のアフリカ諸国と違い、独自の言語を使い続けています。
彼は片言の英語(実際は片言以下の英語でしたが)で
『いつか学校に行ってみたい。日本ってきっと素晴らしい国なんでしょ?』
ポツリとこぼしました。
彼はきっと日本のことなんて知らない。でも僕を見て、僕の話を聞いて、そう感じたのだと思いました。
僕はラリベラの夕焼けに包まれながら、思わず涙してしまいました。
いわゆるエリートと言われるような人生を歩んで(そう勘違いして)きて、小さな世界の中でしか物事を見ておらず、何不自由なく生きてきた自分がものすごく恥ずかしくなりました。
日本にいれば飢え死にすることなんてない。当たり前のように教育を受けられる。好きなことを好きなだけやらせてもらえた。
でも、この国では当たり前のように飢え死にする人がいて、当たり前のように教育を受けることができない人がいる。
僕はその瞬間、自分の過去が走馬灯のように蘇り、そして一体なにをしていたんだろうと感じました。
そして美しい景色を前にして思いました。
世界はこんなにも美しく、こんなにも不公平なのか
そして、
『僕は何かしなくてはいけない。それは、僕だからしなければいけないことなのか、僕だからできることなのかなんて分からない。でも何かしなければいけない。』
僕はそう思いました。
遅い反抗期だったのかもしれない
日本に帰国した後、野田さんに想いを打ち明けました。
僕は自分の歩んできた人生が恥ずかしくなりました。
今まで安全に舗装された道の上ばかりを歩いてきた気がします。
アフリカに行って自分自身に対する、そして今までの価値観に対する強い反抗の気持ちを覚えました。
僕がやらばければいけないことなのかは分かりません。
でも見過ごせなかった。
何かしなければいけないと思ってしまった。
だからエチオピアに戻ります。
その想いを野田さんは理解し、そして受け止めてくれました。
君が言っていることはよくわかる。
僕が日本に戻ろうと思った時も同じだった。
誰も僕の気持ちを理解してくれなかった。
今の君の気持ちもきっと同じだろう。
そして何を言われようが君の気持ちが変わらないこともよく分かる。
だから行ってきなさい。
そうして僕は何の伝手もないまま、現地の言葉(アムハラ語)すらも分からないままエチオピアに戻ることを決意しました。
さいごに
エチオピアでは首都のアディスアベバというところに住んでいました。
アディスアベバは標高2,500mくらいの高地で、世界で3番目に標高が高い都市です。
そこでの壮絶な現実や時に死とも向き合いながら、そして高山病による激しい頭痛や息切れに加え、アムハラ語を覚えながらの試行錯誤、行動行動行動の末に1年以上の年月を経て、国際NGO Addis Gohを設立しました。
Addis Gohというのはアムハラ語で『新しい光が差し込む瞬間』という意味です。
僕がエチオピアの人たちから学ばせてもらったこと、Addis Gohを通じて為し得たこと、為し得られなかったこと、エチオピアでの生活などについては機会があればまた書きたいと思います。
お読みいただきありがとうございました!
これは僕のツイッターです。@KENGO_Kawauchi
気が向いたらのぞいてください ^_^
ありがとうございました!