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no. 3 小学3,4年生 (その1,今回は全部無料)

小学3年生,初めての男性担任教師

 小学3年生になると,初めてI田先生という男性がクラスの担任となった.当時としても男性の教師は既にそれほど珍しい存在ではなかったはずだが,初めてのこととあってそれなりに新鮮だった.例えばそれを顕著に感じたのは,歌の時間である.これが普通なのかはわからないが,私の通っていた小学校では「朝の会」と「帰りの会」なるものが毎日行われ,その一部で歌を歌うということをやっていた.毎回音楽教師が全学年に派遣されるということはなく,担任の先生が楽器を使って歌の伴奏を奏で生徒がそれに合わせて歌うのである.私の経験だと女性の先生は主に鍵盤を使った楽器で歌の伴奏などをやっていたのだが,I田先生はアコースティックギター(しかもエレキ)を使っており,その姿がクールに感じられたのを覚えている.それと同時に,ギターは私にとって謎の楽器でもあった.ピアノやオルガンは,一つの鍵盤に対して一つの音が対応しており,小学生の私でも理解できた.しかし,ギターを奏でるI田先生の指は摩訶不思議な形をしており,それも定期的にそのフォームが変化しているのだ.もちろん,ギターも弦を押さえるフレットの場所に対して音が一対一対応しているだけなのだが,最大6弦まで一度に鳴らす和音の組み合わせを定式化したフォームがある,ということは想像もしていなかった.そのようなこともあり,何度もいうが新鮮だったのである.背も高く力も強いので,A田先生とはまた違った頼もしさのようなものを感じたのを覚えている.一方,この先生は正直ちょっと抜けていた.近所のおじさん感が強く,あだ名が『I田のおっちゃん』になってしまう始末である.

奇数年次はクラス替え,歌うのが恥ずかしいと知りぬ

 さて,I田先生が担任となって始まった3年生の生活では,もう一つローカルな変化があった.クラス替えである.私の通っていた小学校におけるクラス替えは,奇数学年に上がる時,つまり(1,)3,5年生に進級するタイミングで行われた.もちろん,40人に満たないひと学年を強引に分割したなんちゃって2クラスなので,学年全員が友達状態に近い.しかし,2年間別の教室で生活し,授業も別々に受けてきた子供たちが一度シャッフルされるので,新しいクラスでは互いが新しい文化を持ち込むことになる.先に言っておくが,私は1,2年生をいわゆるいい子,で過ごしてきた.例えば,国語の音読は感情を込めてアナウンサーのように読むのが良いことだし,音楽の時間は大きな声で元気いっぱい歌うのがやはり良いということを信じて疑わなかったのである.3年生のある時,音楽の時間で歌を歌う機会があった.もちろん私は,2年生までと同様に思いっきり元気よく歌っていた.これで良いんだろう,褒めてよ,という気分である.ふと気づくと,3年生から新しく同じクラスになった女子2人(T子とMW)が,私の方を見てクスクス笑っている.もちろん,幼稚園で一緒だった子達である.どうしたの?と聞くと「K君,思いっきり歌ってるじゃん」と.確かに,一度気になると大口開けて真面目に全力で声を出していることがものすごく恥ずかしくなり,それ以降は本気で歌わなくなってしまった.とにかくダサく感じたのである.どうやら,隣のクラスの子供たちは少し大人びていたようで,歌を歌うということを恥ずかしく感じるセンサーを一足先に身につけていたようである.音読についても同じような体験をした.当時の私には「自分は音読が上手い」という自負があり,実際にA田先生などはよく褒めてくれた.案の定,3年生に入ってからも自分の番には感情を込めてきちんと読んでいた.しかしある時,やはりクスクスと周りから笑われるという事件が起こった.それに気づいたI田先生が半笑いで「なんで笑うんだ,うまいじゃないか」と言うのを聞いた時,またしてもやってしまったことに気づいた.そう,音読なんて真剣にやることは,成長過程の子供にとってはやはり恥ずかしいのである.なお,半笑いなところがちょっと抜けているI田先生らしい.
 2つの出来事に共通しているのは「上手ぶっている,プロぶっている」という印象を相手に与える点なのではないか,と今では思っている.歌で金をもらっているわけでもなく,ナレーターをやっているわけでもない.素人がそのような技術を披露する場合,大人であればそれなりの覚悟が必要なのである.この感覚を知らないまま大人になると痛い目を見ることになるだろうが,しっかりと子供の世界にもその縮小版のようなものが生まれるようになっているのだろう.要は成長したのである.このような羞恥心を覚える体験は,おそらく子供の成長過程において大事なことなのだと思う.

教えられてもいないのに泳げる同級生たちの不思議

 さて,少し話を変えよう.小学3年生だからというわけではないが,私は昔から体が小さく,そのせいかは分からないが運動も苦手であった.大人になった現在の身長は165 cmだが,これは偏差値で言うと30台らしく,女性に換算すると153 cmに相当するそうである.これでも中学で20 cm程度伸びたことを考えると,小学生時代は相当に小さかったのだと思う.父の身長が156 cm,母の身長がそれより少し小さいくらいだったことを考えると実はそれなりの躍進なのだが,健闘虚しく日本人の平均には未だ遠く及ばないのである.そこまで細かいことは意識していなかったが,運動が苦手だということを自覚し出したのも小学3年生ごろからかもしれない.短距離は遅くマラソンもダメ,走り幅跳びや体操など,何をやらせてもパッとしなかったのを覚えている.また両親に言わせると,お前が運動できるはずがない,とのことである.自称記憶力の良い私が両親の運動する様子をほとんど覚えていないので,自分達も苦手だったのであろうと想像するのは容易である.
 さて,運動で最も差が出たのは水泳である.私は全く泳げなかったので,周りの子達がプールの時間にスイスイ泳いでいるのが不思議でたまらなかった.先生たちは泳げと言うだけで泳ぎ方を一切教えてくれないのに,どうしてみんなは泳げるのか分からなかったのだ.この現象は他の学年でも共通だったようで,例えば弟の学年では泳げる生徒たちだけの仲良しグループが自然とできたりしていたそうだ.ただ,この謎が解けるのは意外に早かった.どうやら「スイミング」なるものに通っている子たちがいるらしいと聞きつけたのである.子供はスイミングと略すが,正しくはスイミングスクールなるもので,習い事としては全国的に非常にメジャーなものだったらしい.私の地域でも,学区から駅方向の少し大きな街に降りると大きなスクールがあったようだ.学校終わりに親にスイミングスクールまで送ってもらい日夜水泳を習っていた,というのが,妙に水泳の上手い子供だらけになってしまった理由のようである.
 さて私はというと,実は3年生の夏休みには80 m程度まで泳げるようになってしまった.もちろんスイミングスクールに行くのは嫌だしそもそも行く金がないのだが,幸い泳ぎを練習する環境には恵まれていた.まず,家から自転車で3分程度のところにプールがあり,ここには夏休みの間だけ無料で入ることができた.自治会が地域の子どもにタダ券を配っていたのである.大小のプールがあるのだが,大プールの方は長辺25 mのまさに小学校と同じサイズで,同じ環境で練習できた.また,地元には日本最大の湖である琵琶湖があり,ここも夏には気軽に利用することができた.80 mというのは,仲の良かった2つ下の親戚TM君と一緒に琵琶湖に行き,二人で一斉に泳いだ時に出した記録である.といっても,この80 mの根拠は一緒に来ていたTM君の親が言った数字で,別に測ったわけでもない.もしかしたら100 mだったかもしれないし,もう少し短い50 mだったかもしれない,程度の参考値というわけである.
 さて,泳ぎの練習過程がすっかり抜けているのだが,もちろんある日寝て起きたらいきなり泳げるようになるということはないわけで,コツコツと練習した.泳ぎ方は父に聞いたこともあったように記憶している.最も,父が教えてくれたのはイヌカキであったが.私は昔からとにかくコツコツと練習を積み上げる派で,泳ぎでもスキーでも,自分ができるようになるまで黙々と一人で練習する癖があった.何かができるようになるまで,執念深く,という言葉を充てたくなる程にはずっと練習しているのである.実はこの行動,私にとっては一種の自己アピールの側面が強かったと思う.こんなに頑張っている僕を見て,といった具合に,弟ばかりにかまいがちな両親の注目を引こうとしたのかもしれない.弟は運動など意外と早くに諦めることがあったので,そうなると両親の気を一層引けてしめたものである.そんなふうに弟への嫉妬からかまってちゃんが生まれるパターンがあり得るのかは正直知らないのだが.ただ,練習自体は真面目にやるので,いつの間にかできるようになってしまい,徐々に色々な能力が身についた.さらに,実はこの異常に執念深い私の特異な性質は,後の人生を大きく変えることにもつながるのである.

A田先生の戦線離脱

 さて,3年生時には少し心配な話題も飛び込んできた.去年まで担任をしてくれていたA田先生がノイローゼになってしまったというのである.ノイローゼというのは母が使った実に曖昧な表現であるが,要は病んでしまったのである.その原因は,2学年上の5年生だった.この5年生には普通のいたずらっ子など比較にならないほど素行の悪い子供が集結しており,成長して逮捕された者も出ている.この学年のある生徒が中学2年の時に地元の無人販売所から生卵を盗み,警察署に投げつけて逮捕されたのだ.その後その生徒は別の中学に転校するのであるが,大人になってから性風俗店で1億円規模の窃盗事件を起こして再び逮捕されている.なお,盗んだ卵をわざわざ警察署に投げつけるという整合性のない行為が,複雑な感情ですらない,快・不快に従う行動原理を表しているように思う.そんな荒れた学年を迎え撃つことになったA田先生は,挙手の時のハンドサインを決めたり,自分が飼っている猫のイラストをクラス便りに書いたり,朝の会と帰りの会で元気よく歌を歌ったりという,少しマイルドで模範的なスタイルのクラスを作ろうとするタイプだと思う.そういう意味で当時の5年生とは相性が最悪で,おそらくそのスタイルが機能不全を起こしたのだと勝手ながら予想している.とにかく,5年生の担任となったA田先生は途中でドロップアウトし,しばらく学校で見かけることがなくなってしまった.なおこの5年生の担任には,新たにS木先生という屈強な男性が後任として就くことになった.このS木先生はこの5年生を完全に制御しており,問題を封殺して無事に卒業まで導いている.先の生徒が中2で逮捕されて戻ってきた時には,同じ学年の生徒が中学生になっているにも関わらず小学校のS木先生の下に集結してソフトボール大会を開き,その学生の再起を勇気づけていた.その後,その男は1億円を動かす大物になったわけであるが,方向性を間違えてしまったことは残念である.そして,私は後にこのS木先生と最も仲良くなることとなる.

いじめっ子Y太とその母親との戦い

 ここで,私と一時期浅からぬ因縁を築くY太の話をしようと思う.おそらくこれは小学4年生ごろの話だと思うのだが,ちょっとハッキリしない.実は,Y太は同級生でなく一学年下,つまり弟の学年の生徒であった.Y太は非常に素行の悪い子供で,いわゆるいじめっ子だった.スカートめくりやカンニングなどを常習的に行い,全く悪びれる様子もない困った小学生だったのである.あまりの素行の悪さに,当時の担任M永先生が「Y太くんと同じクラスにいたくない人」と言って多数決を取ったのがちょっとしたエピソードになったくらい,大人も子供も困らせていた.さらに悪いことに,Y太の家は母親もアレなのである.脱色した髪にジャージ姿でY太が問題を起こすたびに形だけの謝罪はするのであるが,Y太はすぐにまた悪さを始めるということが日常的に繰り返されていた.
 さて,私とY太の関わりは,実は弟を介して発生した.弟は幼少の頃弱々しかったと先に書いたと思うが,これがY太の格好のターゲットになってしまった.暴力のようなことも日常的に受けていたようで,これを解決しに私が止めに入っていたら,そのうちY太の攻撃が私に向くようになったのである.最初は無視していたのだが,通学バスの中で頭にデコピンを続けられたり,いきなり引き倒されたりとかなり酷い目に遭わされた.向こうの方が喧嘩が強いと思い込んでいたのだが,ある日我慢の限界が来て,持っていた魔法瓶(水筒)で頭を殴ってしまった.また別の登校中,性懲りも無くまたバスの中で襲われたので,今度は爪でY太の顔面を潰した.この時はY太の爪も私の顔に食い込んだのであるが,一応私の勝利という形で,Y太にトラウマを植え付けることに成功したようである.この時,当時の私の感覚では少し不思議なことが起こった.バス中で喧嘩が終わると,乗っていた同級生たちが私の味方になってくれていたのだ.「お前がいつも上の学年にちょっかいを出しているのが悪い」と,同級生のT也くんがY太に言ってくれていた.このT也くんは同級生の中で一番小柄だが喧嘩最強という謎のキャラクターで,Y太も逆らえない立場にいたようである.
 その後Y太の担任であるM永先生に呼び出されたのだが,怒られるどころかM永先生はY太のことをずっと悪く言っていた.「K君,顔の傷大変だね.一生傷になったらどうするの.Y太はひどい」みたいなことを言っていたと記憶している.そう,私がY太の顔面をえぐったことはお咎めなしなのである.おそらく,普段からの素行と周りにいた子供達の話から,Y太が先に手を出していたことは明白だったのだろう.誰もY太を庇う者がいなかったのは,子供ながら不思議であった.普段の行いとは大事なのであると,この時は全く思わなかったものである.さて後日,やはりY太が金髪のジャージ女と我が家へ謝罪に来た.一応謝っていたが,水筒で殴られた箇所がタンコブになっていると文句をつけてきた.その時私はパツキン母の目を見て「そっちが悪いんだろ」と言ったのを覚えている.特に何も言って付け加えなかったが,どうやら横で聞いていたうちの母親はスカッとしたらしい.引き倒されてバスの床に顔を打ち付けられているのだから,水筒での一発くらい,お釣りが来てもおかしくないレベルなのである.なお,私の母が言っていた「Y太の親は,家で『またやってやれ!』くらいのことを言っているのではないか」は結構当たっていると思う.もちろんY太の素行がそんなことで治るわけはないのだが,とりあえず私に対して喧嘩を売ることは完全に無くなり,それ以降卒業を迎えるまでに喧嘩をすることは一度もなかった.ただし弟は私の見えないところで相変わらず苦労していたようで,トイレのドアに手を挟まれ大怪我をして帰ってきたこともあった.この時は流石に父親が学校に出向き,出てきたは良いがなぜか言い訳ばかりする校長を一喝,二度とさせないことを学校レベルで約束させたという.
 私はというと,それ以降も弟が嫌がらせを受けるたびに何度か下の学年まで足を運んでいた.Y太の一件もあり,私は喧嘩が強いという誤ったイメージが広まっており,それを便利に使えたのである.とはいえ,もちろん実際に喧嘩が強いということは全くなく,どちらかというと頭を使って辛勝するスタイルだったように思う.もし体格に恵まれた同級生と小柄な私が喧嘩しようものなら決して勝てなかったと思うが,幸い私の同級生たちにはY太のようなイカレポンチも頭のネジが飛んだ親もいなかったため,ことなきを得ていた.

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