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no. 2 小学1,2年のワタシ(無料ver.)

幼稚園から小学校へ

 幼稚園を無事に卒園した私は,通っていた幼稚園から車で3分ほどのところにある地元の小学校に進学した.新しい環境ではあるのだが,それほど戸惑いもなく小学校生活が始まったように思う.説明していなかったが,私はかなり田舎の出身である.ほとんどの者が地元の保育園/幼稚園,小学校,中学校という進学過程を経るので,転校などで多少の出入りさえあるものの,基本的には固定メンバーでずっと年齢が上がっていくのだ.私の年は同級生が40人もおらず,しかもそれをさらに2クラスに分けるものだから1クラス20人未満という状況で非常に密な関係が築かれていくのである.なお,私の学年以降クラスが2つに分かれることは2度と無く,たった40人未満でも,実はこの地域において比較的人数のボリュームがあった学年である.ちなみに,上の学年も基本的には1クラスしかない.
 小学校に上がってからは1日が時間割で区切られ授業が始まるわけであるが,これが結構楽しかったのを覚えている.言われたことをやっていれば褒められ,発表すれば褒められ,たまにあるテストでは当たり前のことばかり聞かれ(クラス中が)100点.順調な滑り出しである.

担任のA田先生 いつも優しく時々ビンタ☆

 1,2年生時の担任はA田先生という女性であり,子供のやる気を伸ばすタイプの,今思えば子供の扱いに慣れている方だった.この先生は基本優しいのだが,特定の場面で厳しくなることがあった.一つ目が給食である.給食のメニューは管理栄養士が考えており,もちろん子供たちのキライな天敵も遠慮なく投入される.で,この給食をある程度食べないと,A田先生は昼休みに入ることを認めてくれないのである.他の人が昼休みで遊びにいく中,居残りさせられいつまでも給食と睨めっこ状態の友達の姿を何回か見たことを覚えている.ただ,この居残りの基準がけっこう曖昧で,実は私にはほとんど経験がない.当時,椎茸が大っ嫌いで基本的には食べられなかったのだが,普通に残して昼休みに入っていた.居残りの基準がなんだったかはいまだに謎である.なお,給食に関してはもう一つ気になる点があった.A田先生自身が納豆を食べられないのである.私の考えは,子供への食事指導と先生自身の好き嫌いは分けて考えればよい,というものなので,A田先生が納豆嫌いなまま指導することに特に問題はない.野球解説者が大谷翔平を批評するのと同じであり,映画評論家,政治評論家,コメンテーターなど,このような構造は特に珍しいものでもない.ただ,納豆が食べられないことに関して何を隠そうA田先生自身が相当気にしていたようで,納豆が給食に出る日は「先生は納豆食べないけど・・・」と苦笑いしていた.当時は「?」であったが,今思うと可愛いと思うべきところだったのだと思う.少し話は逸れるのだが,こういう話題になると「自分も好き嫌いがあるのに子供の食事指導なんてするな」という意見を恥ずかしげもなく表明する親を見ることがあり,子供ながら非常にがっかりしていた.「大人なのに分からないんだ」といった具合である.

少し長くなったが,A田先生が厳しくなる場面に関してもう一つ紹介しよう.なんとこの先生,顔面にビンタするのである.もちろん日常的にではないが, MT君,KO君,そしてTOさんの男女合わせた3名が結構な良い音と共に頬にくらっていた.私たちの学年は1クラス18か19名なので,顔面ビンタ経験者は15%超えとまぁまぁな確率である.何かマズイことをやったのだとは思うのだけれど,その内容までは思い出せない.ただ,全員に共通していたのは,ビンタを食らっても泣かなかったことである.私が見かけた者は皆,悪いことをしたと自覚があるのか,このビンタをすんなり受け入れていた.もちろん当時も発覚すれば大問題だったと思うが,そんなことは思いつきもせず,叩かれたことを素直に受け入れる学生の反応を意外に感じていた.なお後年,MT君とこの件について話すことがあったが,本人はよく覚えていたようで,しかも多少恨んでいたようである.

拍車がかかる理科少年ぶり

小学校1年生時の生活においても,私はやはり恐竜に熱中していた.絵を描けば恐竜(の骨格標本),イモ版画を掘れば恐竜の骨格(略)といった具合である.もうお分かりだと思うが,授業では図画工作が特に好きであった.授業で作る作品の質を高めるため,A田先生に許可をもらって一人だけカッターナイフの持ち込みを許可してもらったりしていた.また,彫刻刀の使い方を父に教えてもらい,ゴム板を掘って版画作りにも励み,度々A田先生にも見せるようなこともしていた.小学1年生に彫刻刀は少し早い気もするが,私の早熟なところは両親が一番近くで感じており,信頼してもらえていたのだと思う.カッターナイフ持ち込みの際にも,A先生への手紙を認(したた)めてくれたように記憶している.また,工作関連でモータなどにも興味を持ち,ブラシ付きDCモータの仕組みなどもだいたい理解していたように思う.そういうことを父に聞けば教えてくれたので,よく習っていた.なお,父は私が生まれる前に町の電気店に勤めていた経験があり,その時の体験が活きたのだと思う.当時はまだ半導体を小さく集積する技術も限られており,故障した家電は買った店に連絡して修理することのできる時代だったようだ.修理の過程で,父は色々な知識を身につけたのであろう.

ゴジラとひさかわ

 さて,父の関連でもう一つ,ゴジラの話題に触れておきたい.ゴジラとはもちろん,日本が生んだあの有名な怪獣である.私が幼稚園〜小学校低学年の頃は,年末に新作ゴジラ映画が上映されるのが恒例となっていた.そして父は,このゴジラ映画に私たち兄弟を連れて行ってくれたのである.父が言うには「教育に良いと思った」とのこと.考えてみれば,ゴジラは原子爆弾をモチーフに生み出されたモンスターであり,作品によって多少ブレるが水爆実験で放たれた放射線を浴びた古代生物が突然変異して出現した,的な設定がある.これは,広島・長崎に原子爆弾を投下された唯一の被爆国が生み出した強烈なメタファーであるが,その一端を父も受け取り,幼い私たちに伝えたかったのではないかと思う.私は子供だったこともあってゴジラというキャラクターのかっこよさに魅せられていた部分が大きかったのだが,同時にこのような核兵器へのアンチテーゼとしての立ち位置も幼いながらに理解していた.現に,偶然にも水爆実験に居合わせて被曝することになった日本の漁船,第五福竜丸の乗組員がガイガーカウンターを向けられている場面が,ゴジラとセットで幼頃の私の記憶として焼きついているのである.原爆投下という痛ましくも取り返しのつかない状況を,ゴジラという象徴に置き換えかつエンタメとして成立させたそのアイディアは,実に秀逸な傑作であると言えよう.父に子供の教育方針について聞くと,おそらくゴジラの話題は比較的早い段階で上がることだろう.

阪神淡路大震災

 小学1年生の年明けには大きな出来事があった.この年,つまり1995年といえば,真っ先に思い浮かぶであろう阪神淡路大震災の発生である.関西に住んでいたこともあり,私の実家も夜明けと共に相当大きな揺れに見舞われた.実際に大きな揺れを感じた記憶は残っているのだが,意識がはっきりした時には弟と共に父に抱えられており,寝室から居間に連れ出されているところであった.寝室には大きなタンスが置かれていたので,それが倒れて来るのを警戒したのであろう.幸いなことに,私の近くで怪我をした者は誰もいなかったのだが,連日テレビで報道される被害の状況は,小学一年生にも十分理解可能なレベルで悲惨であった.

2年生,そして弟の入学

 2年生になると,私にとってはちょっとした環境の変化が起こった.弟が1年生として小学校に入学してくるのである.これ自体は特段珍しいことでもないのだが,私にとっては少し悩ましい問題であった.弟とは年子で歳が1年10ヶ月離れていることは最初に述べた.そう,弟は早生まれなのである.最近は少しずつ知られるようになったのだが,早生まれの子供はクラスの中でも発育が遅く,体力や知能の面でそれなりのハンデを抱えて過ごすことになるそうだ.特に私の弟は気が弱かったため,幼稚園に行くことでさえ嫌がり両親が苦労していた.そして,その傾向は小学生となっても変わらず,バスに乗っての登下校など集団行動に馴染めずにいたのだ.そうすると,どうやって学校に行くのか,どうやって自宅に帰るのかという問題が生じる.行きはバス停まで母が送っていくことでなんとかなっていた.より深刻なのは,帰りである.ここで母が行ったのは,…(無料版ではカットしました
なお,50 ccのバイクの二人乗りは道交法違反であることを申し添えておく.

弟の特別扱いは大人になっても続く

 実は,弟の特別扱いはこれだけではなかった.誕生日などの記念日にプレゼントをもらうという行事は多くの家で行われているであろうが,このプレゼントに差がついていたのである.私の誕生日付近は父の仕事が忙しいこともあり,正直いって大したものはもらえなかった.母が文庫本を買って渡してくれたのが最初の誕生日プレゼントだったように思う.そしてぐるっと年が回り弟の誕生日がやってくると,巨大なロボットのおもちゃがプレゼントされるのである.私はこういった状況で黙っていられるタチではなかったので,その度に両親を問い詰めた.返ってくる言葉は「お前の誕生日は仕事が忙しい」とかなんとかである.誕生日だけならそういうこともあるか,と納得できそうなものであるが,実はこの状況がクリスマスでも起こっていた.そう,同じ日にもらうプレゼントに差がついているのである.先の幼稚園の件にも書いたが,私はサンタがいないことを知っており,従って弟が欲しがるものを探して父が何件もおもちゃ屋を回っているところから把握しているので,そこは多少こたえた.実は,弟が店頭に並びづらいマイナーなおもちゃをリクエストしたことが原因だったのだが,子供の私には弟のためならいくらでも時間をかける父の姿に見えていた.結局,弟のリクエストした「レッドバロン」なるロボットは玩具屋で見つからず,当時放送していた機動武闘伝Gガンダムというアニメの主人公機である巨大な「ゴッドガンダム」が贈られた.流石にこれほど露骨なプレゼントの差には私も怒り心頭であったが,両親は「じゃあ,そのプレゼントを二人で遊びなさい」といって切り抜けていた.
 さて,このような家庭内の問題なら,私が不満を押し殺せば良いだけである.が,この兄弟間格差は学校で使用する備品にも現れたのである.小学校ではある程度の年齢になると,家庭科の授業で裁縫の実習が開始される.この時,学校より事前に配布されるカタログから裁縫道具セットを選び購入することができるのだが,私はこれを買ってもらえなかった.その代わりに,母がクリアグリーンのプラスチックケースに一通りの道具を詰めて渡してくれ,それを持って授業を受けていた.母は嫁入りにミシンを持参するほど裁縫が得意であったので,オリジナルの道具箱の中身は洗練されており,それ自体に不自由はなかった.ただし,同じクラスの子達はカタログに載っていたカッコイイ新品の裁縫箱を持参していたので羨ましかったものである.そんな時に母から言われるセリフは「うちはお金がないから」.納得である.さて,一年すると,弟も裁縫の実習を開始するようになる.弟の裁縫箱は何色か,クリアグリーンだと区別できないからブルーとかになるのかな・・・と思っていたら(これは作り話),案の定新品をカタログから選ぶ作業が我が家で行われていた.これにも傷ついた物である.普通,弟って兄のお下がりばかりで文句言うもんじゃないの?と,今になってみれば思う.こんなことが小学校高学年まで続き,最終的に私はちょっとだけおかしくなってしまうのだが,この件は時系列の中で書こうと思っている.
 なお,この弟びいきは大人になっても少し続いており,さすがにここまでくると笑ってしまった.私の実家の地域では,冬季には自動車にスタッドレスタイヤを装着することが必要になる.積雪が比較的多いので,どさっと降ってしまった時にノーマルタイヤだと移動手段がなくなるのである.私は普段からタイヤ交換を自分でやっており,その年も一汗かいて作業を終えた.一方,弟は面倒くさがってタイヤ交換をしていなかった.だがしばらくすると,不思議なことに弟の車のタイヤも全部変わっていたのである.これは父の仕業で,放っておけなかったのだそう.もちろんいまさら傷つかないが,人とは幼少期についたキャラクターに影響されて生きていくのだなと感じた.

父を襲った病魔

 上記のように多少の変化はあったものの,小学2年生に上がってもいつも通り過ごしていたと思う.だがある日,大事件が起こる.父親が病気で倒れたのだ.脳梗塞と狭心症のかなり深刻な状態で,死んでいてもおかしくなかったと後から聞いたものである.狭心症も脳梗塞も,どちらも身体の中でも特に重要な役割を担う血管が詰まってしまう疾患である.不思議なことに,当時7~8歳の私はテレビなどから父の病気に関する情報収集を始めていた.この辺りの記憶を繋ぎ合わせると,父は詰まってしまった血管をステントで広げる処置を受けていたようである,ステントとは柔軟性のある金属でできた円筒で,太ももの血管から血管の詰まった部分まで挿入し膨らませることで,一度詰まってしまった血液流路の断面積を拡大する効果がある.幸い,父は快方に向かい無事に退院することができたのであるが,その後の仕事はセーブするという判断をしたようである.造園技能士である父にはかなり精力的に働いていた自覚があり,その蓄積が当時の事態につながったと考えたのであろう.なお,脳梗塞という重要な臓器にダメージを負う病気にも関わらず,父にはマヒなどの症状が一切残らなかった.と見えるのだが,父本人は小さな体の変化を自覚していたようである.釘を打つ時,昔は完璧に使いこなせたカナヅチがほんの少しズレる,のだそうだ.また他の人に言わせると,かなり上手かった重機の運転にも,少し慎重さが出るようになったとのことである.そういったこともあり,造園業で必須の作業である,脚立に登って高所で木の手入れをする,という動作に不安を覚えるようになったのも,仕事を減らした理由の一つだったようである.実は,私自身が感じていた変化もある.温和になった気がするのである.病気前の父はどこか緊張感を持った,カリカリした部分のあるせっかちな人物であった.それが,退院してから少し落ち着いて優しくなり,多少の違和感を感じていた.ただ,父本人が病気前後のことを苦労したエピソードとしてはっきりと認識して話し,私も「お父さん優しくなったよね」などと伝えており,そのような違和感は次第に薄らいで状況の理解へと昇華されていった.
 ということで,我が家は突如訪れた存亡の危機を無事に乗り越えたわけであるが,実はこの問題がかなり後まで影響することになる.仕事をセーブすると当然収入が減ってしまうので,多少の節約は避けられない.この点は母が頭脳派な能力を遺憾なく発揮してしっかりとやりくりし,特に食べ物が貧相になることもなく,貧しいながらも500万円の貯金を作るなど耐えていた.実は,この母の努力は予想もしない形で後に崩壊を始めることになるのだが,それはまた書くこととしよう.

病は気から,病にならなくても十分辛い強烈なトラウマ

 この小学1〜2年生編で,どうしても語らなければならないと考えている話題に触れたい.それは,いまだに私の行動に影響を与える人生最大のトラウマである.ある時,母が録画していたNHKの特別番組を家で見ることになった.その内容は,当時の医療で治すことの叶わない難病を患者の映像と共に詳しく紹介していくというもので,母が気になって録画していたようなのである.詳しくは忘れてしまったのだが,その中では悪性度の高いがん(癌含む)など,とにかく「治し方が分からない」病気が次々と流れていた.今思えばなんということもない(おそらく高品質の)教養番組なのだが,当時の私はその内容にすっかり恐怖してしまい,次の日から…(無料版ではカットしました).

 上記に述べたことは,要は思い込みの力である.自分の心の中だけで完結してしまう現象なら,内容の真偽よりそれにどの程度影響されているかの方が重要なのだと示しているように思う.実は,有名人のがん報道がなされるとき,自分にも同じ症状が突然現れることもある.例えばある歌手が食道がんを公表すると,代表的な自覚症状の一つである食道のあたりが染みるような感覚を覚えたことがある.また,男性乳がんの話題を見て胸が突然痒くなったりしたこともある.この問題は30年近く引きずっているわけであるが,もしかしたらこのトラウマの方が番組で紹介されていた不治の病よりも恐ろしいのかもしれない.驚くべきことにこのトラウマは,一時間程度のたった一本のNHKの番組から始まったのである.

むすび

 大地震,親の病気と比較的大きな事件に遭遇しながら,小学1,2年生の年はあっという間に過ぎていった.先の病気番組のトラウマは後の人生で大きな足枷となるのだが,それでもその深刻さを本当に理解するのはもっと先で,この頃の私は襲ってくる不安による気分の浮き沈みに対処する程度であった.その他だとおたふく風邪にかかった程度で,私は概ねすくすくと成長していたのである.

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