この問いに2つのタイプがいるように思えた。それがエントリーを書き始めた理由だ。それは「知識や好奇心を自分の外部に求める人間」「刺激が自分の内部から発生するタイプ」こんな感じだろうか。 自分にとって、ユーレカって叫びたくなるのは、大抵がコンテンツを摂取しているときだ。それは、物理の新しい見方とか、社会学的な知見に相関性を身言い出した時とか、たまたま見かけた青い鷺が翌日みた映画の重要なモチーフになっていたりとか、そんな時だ。 でも、それは、結局十分に楽しめるだけの参照経験デー
前回noteはいつだったか? さて、この半年ほどの間のセレンディピティについて ・引っ越してきて、ランニングコースに定めた川によくいる「青鷺」がいる。名前はその後ボブと名付けたが、その青鷺を初めてみた日の翌日に、「君たちはどう生きるか?」をみた。 ・映画の見方が変わったのは、「ドライブ・マイ・カー」を見てからだ。あの映画で、主人公の家福(これ、今変換しようとしたら、「禍福」っていうダブルミーニングがあることに気づいた。家=禍)が、最初の方で自分の服を部屋の隅の椅子に投げ
以前から、メタ認知獲得のための日常生活トレーニングとして、以下のような認知的トレーニング手法がありうるのではないかと勝手に妄想し、実行してきた。 1、違和感を獲得する 通常のモードで違和感を獲得するのは、まず意識的にそのモードに入らないといけない。つまり、「違和感を見つけるぞ!」と、頑張って、身構えて、事象を観察する態度が必要だ。いつもは見過ごしてしまう些細なことに「あれ、でも、これなんでだろう」と引っかかることができるようになるかどうかがポイントだ。 2、獲得した違和
ウルフラムのブログに感化されてか、今のGPTをはじめとする大規模言語モデルがもつ超次元ベクトル空間を解析する事が、実は物理学者の仕事なのではないか、という言説を聞いた。 そして、いま我々が初めて目の当たりにしているこの空間は、人間の意識を初めて計算可能にしたともいえ、これからさまざまな法則が実験とその解析によって明らかにされていく。 意識の法則における、相対性理論や量子力学はこれから発見されるという。 量子力学に関しては、文脈依存性から、LLMの効率化に資するという説も
言語が世界を作っている、というのは、どうも一時否定されていたと思うが、今回の大規模言語モデルはこれを逆方向から再始動させた、という鈴木健のコメントはさすがだと思う。テッドチャンはもっとすごいけど。 そして、「ランダムに発生する共通体験こそが大切だ」と。
・てっきり、世界は連続だと思ってたら離散的だった、というのは、とても示唆に富むことだと思う。最近流行りのいくつかのテクノロジーも、連続ではないという開き直りがあると思う。 ・頑張って微分が何かってのを学び直そうと思って、本を買ったりしたけど、全然わからない。
今起きている大規模言語モデルの革命って何かというと、実は言語こそが、超次元ベクトルを人間が操るための最強ツールだったって話を暦本先生がしていて、清水亮さんがシラスで言ってた事と繋がった。 行列とかベクトルって、完全に学生時代の数学における遺産で、自分の人生には二度と立ち現れてこないと思ってただけに、いやー、こんなに時間経ってからやって来るのか、と思うと感慨もひとしお。複素数と虚数もそう。 つくづく人生はよくできたゲームだ。
世界から意味付けされるのを受動的に受け入れるのではなく、自身の存在に世界は何の寄与もしないと嘯いて、むしろ世界を意味づける作業に没頭すること。 アバターは、コミュニケーションの際にあるバリアーを超える。メタ婆ちゃん。美大の学生と絵を通じて、めたばあちゃんと美学生がコミュニケーションできる。
僕はその日、知人の桐原くんと、豆腐さんがこの1月に始めた学問バーに初めて訪問した。その日のテーマは「感情と身体をめぐる哲学」であったが、テーマを勘違いして、ラカンの哲学だと思い込んでいた。加えて、その数日前に、LINEでこの学問バーの事業拡大アイディアについてのメッセージをくれたのは豆腐さんだと勘違いしていて、「明日、学問バーに行くからその時に話そう」って返答したのだけど、そのメッセージはえらてんさんからのものだった。なので、「何時頃きますか?」と聞かれた時に(あれ?桐原さん
例えばそう約束した時、雨が降ったとして、残念だねー、と子供に話しかけて、子供が「いや、この条件文は雨が降らなかった時にのみ適用されるわけで、雨が降ったから行かないとはならないでしょ?」と、言われて、そうかな?と。
結局、他者に話すことでしか自己認知できない。だから、定期的に自分の来歴を初対面に近い人に話すと、自分でも気づいていなかった伏線が回収されることがあって、改めて気付かされることが多い。 今日のそれは、父親の死の話題だった。
見立てと仮説は似ている。AをBに見立てるとは、Aという事象を前にして、Bという背景や原因を仮説する、という認知パターンの亜種だ。 ただ、見立ての方が「発想」の要素が強く、より自由な、創造性や想像力をベースとしているのに対し、仮説は「確からしさ」を目指して行われる行為という印象が強い。また、双方とも全くの出鱈目では意味がなく、AとBを結びつける項目Cが少なくとも一つ、あるいは複数あり、それが何らかの説得性を持たなくてはいけない。 この項目Cの見つけ方が難儀だ。仮説構築は帰納
11月下旬に、友人の導きで鹿児島に初入国することとなった。 昨年のアフリカに続いて、これまで縁のなかった地であること、また、基本的に道先案内人に全てを委ねて、我が身に起こることを楽しむこと、など、これまでにない何かを誘発していく旅だ。 ここでは、その旅で得た洞察を備忘的に、かつ時系列で記していきたいと思う。 ・鹿児島空港の着陸は、窓から見ていると森林スレスレを飛んでいるようで恐怖感がある。のちにYくんから聞いたところ、国内のパイロットの中でも着陸が有数の難度の空港らしい
雪が溶けて 僕たちは春を知る 同じことただ繰り返す 喋る笑う恋をする 僕たちはさよならする カメラの中でほら 夢のような物語が始まる 分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ 暗い夜に 痛いほど目を閉じた僕ら でも今は平気さ 得意技の キザな言葉ですぐに逃げ出すのさ ごらんよ幾つもの噂話 この世界に広がる 思いっきり僕たちは キスを投げてさよならする さよならする さよならをする!
最近、これまでの興味のないことについて、その事象をじっくりと考察することで、自分の興味の対象にする方法を身につけつつある気がしている。 ラスメニーナスの絵画を分析して哲学する、というのを、大学時代に見て、へえー、絵画ってこんな見方もできるんだ、と思った。最近になってその分析はフーコーによるものだと知って、そして、最近のフーコー研究の進展から改めてその分析手法に個人的に関心が向いていって、で、巡り巡ってゲンロンや東浩紀さんがやっていることが、こういうことなのか、と理解できたこ
アブダクションのことを考え続けてる。 見立て、とは、そのような事実を見出した後に行う事なんだけど、まずはこれ(驚くべき事実)を見つけないといけない。で、それが難しい。 普通は見過ごしてしまう、というのが肝ではないか。つまり、この見過ごし、にパターンがあるのではないかと思って、勝手にそう考えてみた。 よく言う、当たり前を疑う、と言うスタンスと似てる。でも、見過ごしはそれだけじゃないし、当たり前を当たり前と認識することが難しいので、トートロジーっぽい。