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父と息子のアフリカ史#2 「イギリス探検家・宣教師達とニジェール川流域の情報戦」

昨日、ようやくナイジェリア訪問ビザがとれた。
ビザ取得にあたり、申請書類不備があったり、タイミング等々に一悶着あったが出発前に無事取れてよかった。(言いたいことは色々あるが、これから待ち受ける旅での災難に比べればなんてことはないと思っている)
ただ、父がナイジェリア出身というのにビザが必要なのはほんの少し不親切には感じた。。まあ、仕方ないけどね。。


父:イボ民族やヨルバ民族が住む南部と違い、イスラム文化圏のナイジェリア北部はそもそも、feudal systemがあった北イスラム系の民族とは違って、みんな自由に商売をしていたんだ。だから、イギリス人が入ってきた時にジャジャのように、北部民族を真似て、商売するのに税金を取らないようにしないとインドみたいに簡単に市場を乗っ取られる可能性があったんだよ。
息子:なるほど、北部の「藩」制度のことか。日本の都道府県も藩って呼んで税制しっかりしてたの習ったな。。。

父:そうかもしれない。北の方が税制や軍事統制がしっかりしていて治安も人も落ち着いていたのかもしれない。
対して、君の祖先のイボ民族や同じく南部に住むヨルバ民族は、個人の自由が広く自由に商売や土地の契約ができたんだ。
といっても、イボ民族が住む地域は小さな村が点々と存在していた地域だからみんながそれぞれの村で静かに暮らしていたんだよ。
息子:確かに、マンゴ・パークの記録によると

「(1830年)5月7日:昨日ファラタ(フラニ人)の婦人が、たくさんの鶏の卵と大きなお椀一杯の牛乳を我々の家に届けにきた。(これは)贈り物に対する感謝の気持ちという点にみられるファラタとヤリビアン(ヨルバ人)の違いを示す興味深い出来事ととして記しておく。
ヤリビアンは、めったに感謝の意を表さないし、感謝することを徳行だとは思っていない。
彼らが我々からの贈り物を受けるときに見せる冷淡さや無関心さ、さらにはさげすみの表情がこのことを証明している。
ヤリビアンが、何かに心から感謝を示したことなど一度も見たことがない」

物語 ナイジェリアの歴史-「アフリカの巨人」の実像 (中公新書 2545)島田 周平 (著) P.82

と書いてあって、イギリス人の北部への期待がいっそう高まったと言われているらしい。

父:南部からすると、北部の人たちは何にでもイエスという自分がない人たちに見えるけどね。feudal systemの人たちは偉い人に従うようになるんだよ。
だけど、フラニ人は元々モンゴル人と同じように遊牧民だったことから、馬に乗るのがうまくて戦争では負けなしと恐れらていた民族だった。
それが、サハラを超えてきた来たアラブ人商人やその他民族との混血が進み定住したり、イスラム文化を取り入れるようになっていった。
feudal systemはイスラム文化の一つで、スルタン(Sultan)エミール(Emir)って、みんな学校で習うんだ。

(聖戦で)勝利を収めると、占拠した地域のエミールに任命した。
エミールたちはスルタンの教えに忠誠を誓い、スルタンに対して毎年貢納義務を負ってエミールに就任した。…
だから藩王国ではスルタンこそが国王と呼ぶにふさわしい存在であるが、イスラーム社会の最高権威者という意味を明確にするためこの本ではスルタンとしておきたい。…
(この)支配体制をスルタン=エミール体制と呼ぶことにする。

物語 ナイジェリアの歴史-「アフリカの巨人」の実像 (中公新書 2545)島田 周平 (著) P.24

だから、北部は落ち着いているように見えたけどそれはジ・ハード(聖戦)を繰り返した後ちゃんとスルタンとエミールでfeudal systemができていたから落ち着いていただけだ。この後、イギリス人たちが入ってきて藩の境界線が無くされて、イギリス人が出て行った後一番戦争やっているのはどこだと思う。。。?
北部じゃないか!ボコハラムも出てきたり、テロリストがいっぱい出てきてそれぞれみんな自分たちの民族や祖先がいた地域を取り合うんだよ。
特にフラニ人はいまだに強いと言われている。

息子:優しくしてもらった民族を支配して、その後彼らが凶暴化するのは皮肉だなぁ。

父:マンゴ・パーク。。懐かしいな。子供の時、学校で習ったよ。
息子:おー!どんなふうに習うの?
父:「マンゴ・パークがNiger River(ニジェール川)を最初に発見した」って教科書を読んでみんな習うんだけど、現地の人たちにとってはそんな川昔からみんな知っている川だから、「発見がなんだ?」と先生や親と一緒に笑うんだよ。
でも、この発見が大体1800年くらいで、この川を伝ってどんどんイギリス人たちが大陸の中に入ってくるんだ。
その100年後にたくさんあった村や王国、藩も丸ごと、Niger Riverから名前を取ってNigeriaって勝手に呼び出すわけだ。

・1788 ロンドン中心部の居酒屋にて、学者や政治家、司教たちが集まり、アフリカ内陸部探検協会が発足
・1795~1797 同協会より派遣されたマンゴ・パークがニジェール川をセグからバマコを航行、無事イギリスへ帰国
・1807 イギリス議会、英帝国領内における奴隷貿易の禁止法を可決

・1884~1885 ベルリン会議で西アフリカ地図上にイギリス実行支配地域の境界線が引かれる
・1900 イギリス植民地ナイジェリア宣言

息子:空白の100年の間に、イギリスは奴隷貿易も終わっていたの、何しにナイジェリアに来ていたの?
父:アフリカは資源が豊かで、なんでもあったんだよ!
息子:確かに、奴隷貿易後の「合法貿易の筆頭格」としてパーム油とは書いているけど、森の木から取れる油が何をするの?
父:その当時、バンバン機関車を動かしたり、機械を次々と作り出していたイギリスには油が必要だったんだよ。ほら、自転車にも油を注すだろ!
他にも、ピーナッツもいっぱい取れるからそれを持って帰って油を抽出していたんだろう。

パームオイルやアラビアゴムは,18 世紀にはすでにヨーロッパに輸出されており,後者は,西インド諸島で生産されるインディゴと並んで,ヨーロッパでインド 綿布の模倣品を生産する上で欠かせなかった。19 世紀に入ると,イギリ スをはじめ,欧米諸国での工業化の進展に伴い,パームオイルに対する需要も大きく高まった。 これは,鉄道や機械の潤滑油として用いられたほか,ロウソクや石鹼などの製造の原材料となっ た。落花生も同様に,ヨーロッパでは石鹼製造の原材料として重宝された。

19世紀の西アフリカにおけるパームオイル生産と輸出 : W.A.ルイスの「熱帯の発展」論・再考
パーム木

息子:なるほど、それでパーム油が取れる内陸の森林地帯を目指して、ニジェール川の水路と探検家たちが持ち帰った情報を元に使ってどんどん中に入ってきたのか。
父:そう。あと奴隷が禁止された後も、秘密で奴隷貿易する人たちがいるからクリスチャンを送って、聖書を教えて、奴隷をやめさせようともさせていた。元々、奴隷貿易をやっていたのに自分たちなのにね。
そうすると、アフリカ人たちと仲が悪くなったりして、最初はイギリス人を守るため、それから土地を奪うためにどんどん軍人を送り出してくるようになるんだよ。
息子:確かにジャジャの話もこの時だしなぁ。結局、こうやって探検家や商人、宣教師たちを通じてどんどん内陸部情報も持ち帰っていたわけか。

探検家に求められていた調査項目:
1. 行程:通過した国、旅の様子、渡った川及び大河からの行程
2. 国家:王制か否か、王制の場合その王位継承方法、貴族階級の有無など
3. 司法制度:裁判制度、町の警察組織、治安方法、死罪の有無、立法機関の有無など
4. 財産関係法:土地売買及び土地確保の方法、土地争いの調停方法など
5. 国家歳入:地租、10分の1税、商業税などの状況
6. 農業:雨季の期間、栽培作物の種類、犂 (すき)の利用状況、動物飼養状況など、
7. 交易:貨幣の使用状況、度量衡、生産品、輸入品、交易相手国など
8. 宗教:礼拝堂の有無、死後の審判や死霊の祟りなどに関する考え方など
9. 言語:使用言語、書き文字の有無
10. 音楽:使用されている楽器
11. マナー:女性の社会における地位、職業のことなる夫婦の1日の生活状況
12. 金:金鉱の有無、その採掘方法
13. 大河に関して:大河の流路に関する地理情報、水上交通に関する情報など
数千ポンドの資金援助をする協会が探検家に求めていた情報の多くは実利的なものだった。

息子:じゃあ、ベルリン会議でドイツ領(現カメルーン)とフランス領(現ベナン)との境界線を引いている間、ナイジェリア人は何をしてたの?
父:それは村によっては、イギリス軍と戦って人がいっぱい死んだ場所もあったり、村長が連れ去られたりだね。
じゃあ今日は最後に、君のおばあちゃんが今住んでいる田舎町のアコウコワ(Akokwa)の話をして終わりにしよう。あとの話はビザを取ってからだ。
息子:わかった。

父:もちろん君のおじいちゃんも聞いた話だが、親父から聞いた話はこうだ。

アコウコワの村にはそれなりに畑が広がっていて、農村として成り立っていた。村には、村を取り仕切る村長とその取り巻き的な人もいたが、それでも全員合わせても200人行かないくらいの村だった。
そこにある日突然遣いの人が現れて、イギリス人が村の畑に対して税金を取り上げたいという情報が入った。
それを聞いて、村の男たちは武器を手に取り、次にイギリス人が本当にやってくる時NOと答える準備をしていたんだ。
そして、ある日突然イギリス人達がやってきた。
だが、やってきたのはイギリス軍隊だった。どれだけの数がいたかはわからないが、結局軍隊の装備や戦わずともわかる兵力に驚いて、みんな武器を捨ててすぐに降参したらしい。

父:こうやって、次々と村が支配されていくことが、ベルリン会議の裏で、同じ時期に行われていた訳だ。これが国となれば、戦争になるだろうし、それでもイギリスは技術も兵力も情報も備えていたわけで、ニジェール川を中心に支配が進み、元々あった村や固有の文化が少しずつ崩れていったんだ。

もしかしたら、こういった歴史から外国人に対する不信感が本人達も気づかないうちに現代にも脈々と受け継がれ、ビザや外交政策に現れているのかもしれない。まあ、ビザは単に日本との国交が今までそんなに比較的活発じゃなかったからだと思うけど。

続く。。。
(次回、現代人のアイデンティティーを作る独立と内戦、石油発見)

冒頭挿絵:ニジェール川と建設中の大橋

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