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父と息子のアフリカ史#1 「悲劇の王ジャジャの生涯」

今日、久しぶりに実家に帰った。
僕の実家は、都内だけれども自然豊かで、9/1の今日はまだ蝉の声や、バッタ、コオロギの鳴き声がそこらじゅうに鳴り響いていた。
天気こそ良くなかったけど、
「あ、実家に帰ってきたなぁ。誰しも、実家で聴く虫の鳴き声って一番うるさくて心地いいのでは?」なんて下手なこと考えながらバス停から実家まで歩いてました。

今日は今月末、西アフリカのナイジェリアへ一人旅に出かける自分のビザ申請の進捗報告とお助け願いのため帰った。
出発までには一ヶ月を切り、チケットはすでに購入済みにもかかわらずなかなかビザ申請に手こずっている。父親には誰か助けてくれる人や大使館に知り合いがいないか前々から聞いていて、「いるよ。連絡先を送るよ」と言ってくれているがなかなか連絡先を送ってくれないので直接会いにいった次第。。。
(言いたいことはまだまだ多くあるが、そこは文化の違いであり、世代の違いであり、家庭の事情なのだと思う。。)

僕の父親は、在日ナイジェリア人でかれこれ30年以上日本に住んでいる。
人生の半分以上を日本で過ごしているにもかかわらず、昔から変わらずナイジェリア戻りたいと言う。
もちろん、日本の方が便利で綺麗で治安が良いし、教育システムは整っていて、パスポートは最強だから、父親は日本で僕と弟を育て、「とりあえず日本国籍を取れ」と僕が二十歳の時に言ったのだと思う。
移民として、息子にも言えない苦しい経験してある程度の生活を日本で手に入れた父親が、未だに帰りたがる地元には何があるのだろうと考えると、興味が湧く。

そんな興味のもと、旅行に先駆けて最近ナイジェリア史の本を読み始めた。
思いのほか面白くて、知らない単語や発音が難しい名前が多いが、通勤中も毎日読んでいる。
実家で久々に一緒に卓を囲んでご飯を食べる時にはすでに料理の右手にその本を置いてしまっていた。


息子:ねね、ラゴスからカノまで何時間あるの?

父:大体、1000キロぐらいかな
息子:じゃあ、車で1週間くらいかぁ。(なんで時間で言わないんっ!?)
父:まあ、飛行機で2時間くらいだね。俺もこの前帰った時、初めて行ったんだよ。
母:いつ!?
父:何年かむかし
母:全然連れてってくれないじゃん。というかあんまりいろんなとこ行ったことないんだよね。
息子:まあ、住んでたらあんまり行かないでしょ。僕も国内知らないとこばっかだし。

息子:カノ行ってみたいんだよね。イギリス人の探検家の日記に北部の人たちは南のヨルバ人よりみんな親切で優しかったって書いていたみたいなんだ。
父:まあ、結局北の地域でもイギリスと戦争になってめちゃくちゃにされて、今となってはだけどね。
息子:確かに。最近この本読んでて、イギリスからすると北の地域が南に湿地帯と違って住みやすく、何よりも馬が生活できる環境が北にはあったから西アフリカ開拓・交易拠点として渇望していたって書いてあったわ。
父:何それ。日本語で書いてあるの?
息子:そう。
父:まあ、日本語で書いてることなんて英語から訳されたことで、都合よく書かれているだろうけどね。
息子:・・・
母:どれ、見せて。。。

息子:じゃあさ、イボ人のジャジャって知っている?
父:あー、"jaja the King of Opobo"だろ。ヨクヨクシッテルジャン(大笑い)
息子:(嬉しそう。)
父:彼はイギリスに殺された王様だからね!
息子:いや待って待て。殺されてないし、まず王様だっけ。。
父:だから、he is the "King of Opobo" なんだよ。
息子:え、解放奴隷から貿易商人として成り上がったビジネスマンじゃなかったっけ。しかも、確かにイギリスに捕らえられたけど、島流しにされただけでしょ。オポポなんて書いてあったっけ。
父:No, he was the King of Opobo, that time there was many Kingdom in Nigeria, and Opobo was one of them!
息子:わかった、わかった。待って(本を母から取り返し、章を探し出す)。
あった、「悲劇の王ジャジャの生涯」だ。

ジャジャは1821年生まれのイボ人である。
彼は12歳の時に… 奴隷として売られた後、(売られた先で)パーム油の貿易に従事した。ここで彼は優れた商才と統率力を発揮した。
…その後… パーム油の生産地の事情に詳しく交渉力にも長けるジャジャは1860年代になるとニジェール・デルタで最も強い勢力をもつハウス*長になった。
やがて、彼はボニーにあった18のハウスのうち14を束ねてオポボと名乗る国を作り、1863年にこの国の王となった。

物語 ナイジェリアの歴史-「アフリカの巨人」の実像 (中公新書 2545)島田 周平 (著) P.56

*ハウス… 現地で当時の交易商人組合の総称

息子:あ、ほんとだ。王様になってたわ。オポボね。
でも、この人この後、営業税の支払いをイギリス人商人に求めて捕まえられて島流しになったんでしょ?
父:だから殺されたんだよ!
息子:いやでも島流しになって、なんなら一応お金も渡されて連れてかれた先でも自由だったんじゃなかったっけ?

1886年、オポボの内陸部で商業活動を行おうとするイギリス商社に対し、ジャジャは営業税の支払いを求めた。イギリス商社がそれを拒否すると、
…イギリスに直接パーム油を輸出することまでして、イギリス商社に対抗したのである。
このジャジャの権力と能力に驚いた現地のイギリス人領事ジョンストンは、彼を騙してイギリスの艦船に呼び出し、その場で捕らえてゴールド・コーストに送った。そこで裁判にかけて協定違反の罪で有罪とし、島流しのように西インド諸島に送ったのである。
ジョンストンのこのやり方はイギリス国内で問題視され、ジャジャの西インド諸島での生活は拘束もなく自由なものとなった。
….補償金として年800ポンドの手当も支給されたのだが、ジャジャの望郷の念は募るばかりであった。

その願いは、四年後の1891年になってようやく認められ、彼は帰郷できることになったのだがその旅路の途中、アフリカ本土を目の前にしたカナリア諸島のテネリフェ島で彼は亡くなってしまった。
奴隷貿易から合法貿易への転換期を生きた数奇な生涯の一つといえよう。

物語 ナイジェリアの歴史-「アフリカの巨人」の実像 (中公新書 2545)島田 周平 (著) P.56

息子:「なくなってしまった。」・・・
母:じゃあ、殺された可能性もあるかもね。
父:そうだよ。だってその4年間は結局イギリス人は自由にビジネスができたのに、また王様が帰ってきたらどうだろうよ。オポボはまた盛り上がって戦争になる可能性だってあるわけだし、そりゃ殺されるでしょう。
それで、そんな記録が残されるか?
だから、イギリス人が都合がいいように書かれてるんだよ!

息子:なるほど。。
まあ、これは結局アメリカに連れて行かれた奴隷とアフリカに残っていた奴隷の比較しながら、アフリカで実在していた奴隷制度と解放された後の能力主義的な自由な社会を説明するために書かれているんだ思うよ。
結局同じ時期にあった、リンカーンの奴隷解放後もアメリカでは今までずっと黒人は虐げられていたわけだし。。
父:そりゃ、アフリカに残っている方が地元なんだし、生まれた地のことはみんな知っているし、家族や知り合いも簡単に見つかるだろうし、自由に決まってるじゃないか。
息子:・・・(ぐうの音も出ない)

ジャジャの死因については、その後ネットで調べてみたがみたところ死因は見つからなかった。
父の言うイギリスの動機には一理あるし、実際に騙し捕らえられ戻らなくなった彼の帰りを待ち望み、訴え続けた民は、事実がどうであれ「彼は殺された」というのは容易に想像がつく。

父:イボ民族やヨルバ民族が住む南部と違い、イスラム文化圏のナイジェリア北部はそもそも、feudal systemがあった北イスラム系の民族とは違って、みんな自由に商売をしていたんだ。だから、イギリス人が入ってきた時にジャジャのように、北部民族を真似て、商売するのに税金を取らないようにしないとインドみたいに簡単に市場を乗っ取られる可能性があったんだよ。
息子:なるほど、北部の「藩」制度のことか。日本の都道府県も藩って呼んで税制しっかりしてたの習ったな。。。


続く。。。
(次回、イギリス探検家・宣教師達とニジェール川広域の情報戦)

冒頭挿絵:
右・真ん中:洋装に身を包むジャジャ
左:伝統的衣装に身を包むジャジャ


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