「プロレス的」という言い回し
「プロレス的」という言い回しについて考えてしまった。もちろん、そのきっかけはTwitter上の塩村議員の発言とこれに対する反応といった一連の事件だ。
私たちが「プロレス的」というとき、プロレスのようなものを指しているのであって、現実のプロレスそれ自体は想定されてはいない。
例えば「アンチのプロレス芸」と聞いた者は、アンチがリングに上がってプロレスの試合を行うことを指しているとは考えない。
ここでいう「プロレス的」とはおおよそ「結果ありきの闘い」をいうのだろう。
「プロレス的」という言葉は、現実のプロレスを指していないことは明らかだ。プロレスのようなものと言っているに過ぎない。それなのに、プロレスラーやプロレスファン、プロレス団体のオーナーは嫌な気持ちになる。なぜだろうか。
それでも、プロレスが不当に毀損されていると、侮辱されていると感じたからである。
プロレスファンたちは、プロレスは結果ありきの戦いではないと主張している訳ではないだろう。これは今回の批判とはずれている。
プロレスファンたちがしたのは、プロレスには「結果ありきの闘い」では言い表せない魅力があるのにもかかわらず、その魅力を無かったことにする、そういった不公平性に対する抗議ではないか。
プロレスには技術、肉体、精神力、そして人間同士のドラマがあるのに、そこに目を向けないで、つまらないところだけを摘み上げる、その行儀の悪さ。
謝罪と撤回を求めるという不公平性に対する抗議は、よいものだったのだろうか。
「プロレス的」という言い回しに不公平性は観念できるのものの、あくまで言葉である。言葉で反論することができる。
原則として言葉による「表現」に対しては言葉によってコミュニケーションを図り、返答してやるのが公平な気がする。(心身に深刻なダメージを与え、打ちのめす言葉は相手の反論を封じるので言語的コミュニケーションの例外である。)
謝罪と撤回は言語的コミュニケーションとは対極にある。どちらもやり取りを終わらせるものだからだ。それに言語的なコミュニケーションではない「意見書」の提出という対応はよくないだろう。原則に則り、プロレスには勝った負けただけでない魅力があるということ言葉で伝えてもよかった。
そうした方が正面から堂々と立ち向かっている気がする。
また、変に肩を持つことになるのは嫌すぎるし、別にどうでもよいのだが、取ってつけたようにプロレスの結果ありきの勝負という側面ではない、プロレスの魅力を語り出した塩村議員は図らずしも傷ついたプロレスファンを手当てしてしまっている。
言語的コミュニケーションで解決すべき領域は言語で対応し、そうでないときには非言語的な方法をとる。そうやって両方を区別して対応していかないと、本当に深刻な問題があったとき、非言語的なコミュニケーションの社会的な意味が薄れていってしまう。
社会問題がすべて謝罪と撤回と意見書で解決されることがないように、私たちは勇敢なプロレスラーのように真正面から立ち向かう必要がある。
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