サイボウズ式 Meetup で感じた違和感
2018年12月13日。サイボウズ式編集部と読者参加型の忘年会。個人としては、サイボウズ式問わずmeetupというものに初めて参加してみたのですが、そこで感じたことを整理をしてみました。
twitter #サイボウズ式meetup
イベントは編集部の方々の1年の振り返りやライトニングトークでサイボウズ式の裏側が見えてとても楽しかった。またトークの掛け合いが面白くテキストとは違ってまた良い。サイボウズの雰囲気を肌で感じられて有意義で楽しかった!というのが素直な感想。全く違う環境の方たちと話ができるというのもとても良い経験であった。
でもなぜだろう、懇親会の最中にふと何かモヤモヤというか違和感みたいなものが心の中にあることに気付く。会場を出て、帰りの電車に乗るとそのモヤモヤは少しずつ大きくなり、一晩たってもそのモヤモヤが消えることはなかった。
自分の意思で参加したわけだし、そこにいた人も皆さんありのままで素敵で、またそれを受け止めるような雰囲気もサイボウズっぽくて良いなぁと思った。緊張はもちろんあったけど、それも含めて良い時間を過ごせたと思っている。
さて自分はどうだっただろうか、と考えてみる。そう、違和感はここにあった。普段あまり出すことのできない"ありのまま"を出せると思ったし出すべきだと思っていた。そしてありのままの自分を出していたつもりだった。
ただ自分の中に「ありのままであるべき」というなにか強制力のようなものがある気がした。ありのままとは言葉の通り自然体。自然体の人たちに囲まれて、そうでない自分とのギャップが無意識に心に負荷をかけていたのかもしれない。
思い返せば社会人となり12年、色々な「そうあるべき」を演じて実践することで何とかやってこれた。というより、そうしなければきっと生きてこれなかった。
営業はこうあるべき、会社員はこうあるべき、新人はこうあるべき、マネージャーはこうあるべき、大人はこうあるべき、男はこうあるべき、父はこうあるべき。
気がつかないうちに私はあるべき姿をまといすぎ、本当の自分の出し方がよく分からなくなってしまっていた。
心の問題もあるかもしれない。自分を出すことで迷惑じゃないか、嫌われないか、かっこ悪くないか、そんなことを気にしてしまう。だから自分を出せない。きっと受け止めてくれるはずなのに、どこか怖がっていたのかもしれない。
自分がありのままを出せるのは、定期的に会いたくなる友人たち。みんなありのままの自然体。だから自分もありのままでいられる。だから楽しいし会いたくなる。
今までありのままでいられる時間が少なすぎたかもしれない。あるべき姿に囚われすぎていたかもしれない。ありのままを出せる時間や場所をもっと増やして行こう。多くの時間を過ごす会社でありのままを出せない以上、他でそんな場所を増やすしかない。
なんかよく分からないけど、すっきりと晴れやかになった。モヤモヤとしっかり向き合うと、こんなにも前向きになれる。
サイボウズって本当に色々な気付きを与えてくれる。もっとサイボウズと関わって行きたいと改めて思う、結局そんな結論。