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月旅行とコメ

(中略) 農産物は「とれた」「できた」というのです。この表現は人智の及ばない自然界への感謝と畏れ、そして人間の分際、身の程をわきまえた素晴らしい形容だと私は考えています。
 ところが、いまどきこんなことを言おうものなら物笑いです。
「月への旅行が現実になろうという時代に、縄文人みたいなことを言わないでください」・私はそう揶揄されたことがあります。
 そうでしょうか。私にいわせれば、月への旅行は可能でも、科学技術ではコメ一粒、葉っぱ一枚、ミルク一粒作れないのです。たったこれだけのことができない。しかも、残念なことにそれらを食べなければ人は生きられませんから、農業の助けなしには月への旅行にも行けない。(後略)

『百姓の遺言』山下惣一

 まったく農業に関わっていないわたしが言えることはないのですが、先日ちょっとだけ屋内農園を見学する機会があり、窓もないビルの中でLEDライトに照らされた葉物野菜の”工場”を興味深く拝見いたしました。
 きれいな水と肥料がトレーを流れ、本棚のような白いキャビネットに整然と緑の野菜が育っておりました。室内なのでもちろん天候に左右されることはなく、いつも一定の温度で快適な空間です。
 農場というよりは”工場”という言葉が自然と出てきてしまいましたが、野菜にしても山下惣一さんが言う「とれた」「できた」というよりは、「製造した」という形容のほうがしっくりきそうな印象でした。
 もちろん私の偏見であり、個人の勝手な印象です。
根本的なところでは、誰かが種を取り(最近はF1という一回しか発芽しない種だそうですが。。)、それをトレーに”植えて”、野菜は自力で発芽、成長していきますので、人間ができることは成長をアシストするだけなのでしょうが、どうもなにか窮屈な感じがして、生命力が広がっていくようなすがすがしさが感じられないのは私が鈍感なのでしょう。
 おすそ分けしていただいた小松菜はおいしくいただきました。

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