9年前の冬の話(今は2021年)

「実家の私の部屋には天井からベルトを吊るしてあるの。いつでも死ねるようにしておくと安心できたから。」
それを聞かされた俺はどんな表情をしていたのかは当然自分ではわからない。
煙草をもみ消してゆっくりと煙を吐いてから換気扇のスイッチを切った。
彼女が待つ布団に潜り込みもう一度キスからはじめる。
-どんな返事をするのがベストなのか、彼女は一体俺に何を言って欲しいのか、夜は長い、その内に見つかる。
そう自分に言い聞かせ俺は朝日が差すのを待っていた。
醜く獣のような行為と反して冷え切った脳味噌で行われる思考とのギャップはすぐに無くなり覚えたばかりのセックスに明け暮れる。

彼女の部屋は女子大生の一人暮らしにしては広い。
そして、女子大生の一人暮らしにしては何もなかった。
生活に必要な最低限の家具と家電、可愛げとはかけ離れた寂しい部屋。
だが所謂女子大生の一人暮らしとは決定的に違うのは冷蔵庫で冷やされている缶ビールの量。
彼女の家の冷蔵庫には残り少なくなったマヨネーズが入っているだけで食品は皆無。
残りのスペースは全てビールに占領されていた。
まるで女子大生に似つかわしくないハードボイルド気取りの男のような部屋。
必要最低限何も無い部屋と大量のビール、それが彼女の全て。

バイトが終わった彼女を迎えに行く
吐いた息の白さと煙草の煙の白さが交じり合ってまるで工場のように白い煙を吐き続ける。
彼女が住む街と地元の街は同じ府内にあるのにこちらの方が北にあるせいか少し寒く感じる。


「別れよう。」
そう画面に表示された時に俺の中に確かに存在していたはずの自信は全て崩れ去った。
俺が、俺だけがこの女の全てを知っている。
俺はそう自負していた。

果たして本当にそうだったのか。
例えば友人とお酒を飲みに行ってくる、それは本当だったのだろうか。
許されざる情事が行われていたのではないだろうか。
実際のところ帰省時に他の男と寝ていたのは事実だった。

呆れた。
女にも自意識過剰だった己自身にも。
「愛する事しか知らない男から愛を取り上げるなんて〜だから殺した。」というセリフから始まる映画があった。
それは間違いだと思った。
彼女への殺意も、一層の事このまま電車にでも飛び込んでしまおうかという未熟極まりない身勝手浮かんで来ない。
ただただ呆れたのである。
抑鬱状態になった事は無いが恐らくそれとは違う、またこの世の全てを呪ったり見限ったりした訳でも無い。
呆然としていた。

そのままの足で女の家に向かい主人の居ぬ間に自分の荷物を取りに行った。
女の象徴であった大量のビールも主人が家に居なければ無い。
そして今はもう俺が居た痕跡すら無くなった。
御丁寧に窓が開いていないか確認したり、無駄に電気が付いていないかにも気を払ってから外に出てしっかりと鍵を閉めた。
郵便受けに合鍵を入れてマンションから出る。
始発でこの街まで来たから来る時にはまだ暗かった空が蒼く澄んでいて太陽が照り付けており少し暑いくらいだ。
ほんの先週までコートを手放せなかったのにもかかわらず嫌という程太陽が仕事をしてくれている。

暖かい陽気に澄み渡った空。
何故か気分は晴れやかだ。
本当はわかってたんだろ、こんな日が来ることが。
所謂束縛し合う男女が別れた事による開放感、それとは違う。
そうだ、俺はわかっていた。
気付いていたんだ。
お前は彼女を救えないし、彼女はお前を救えない。
MR.BIGのテイクカヴァーを聞く
間違いない今はこれだ
これなんだ。
俺はなんとかこの心境から逃げ出さなくちゃならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?