少女ヘジャル プレーントゥ
汚れてはいるけれど幸せな足下と、
汚れてはいないけれど寂しい足下。
少女ヘジャル
村が弾圧された際に両親を亡くし、孤児となってしまった5歳のクルド人少女ヘジャル。
彼女は叔父のエブドゥに連れられ、イスタンブールに住む親戚のもとに預けられた。
だがそれも束の間、親戚宅がクルド人分離独立派の拠点だったことから、武装警官隊の襲撃に遭い一家は皆殺しにされてしまう。
ただ一人難を逃れたヘジャルは隣の家に入り込む。
そこには妻と死に別れた75歳の元判事ルファトが住んでいた。
困惑するルファトだったが、少女を不憫に思い、渋々ながらも彼女を匿うことに。。。
プレーントゥ
本作は2001年の公開5ヵ月後に上映禁止となり監督自身も訴えられたという背景をもつ、1998年のトルコを舞台に言語と文化の壁を越え心を通わせていく老人と少女の交流を描いたトルコ人女性監督ハンダン・イペクチ監督の作品です。
主人公へジャルが叔父であるエブドゥに連れられイスタンブールの親戚に預けられに行くシーンからはじまる本作は、クルド人問題に巻き込まれながらも偶然出会ったヘジャルとルファトの交流を描く数ヶ月の物語です。
物語は事件直後に廊下に佇むヘジャルを家政婦のサキネが見つけ、ルファトがヘジャルを匿うことになることから動き始めます。
まず生活をしていく上でいくつかの具体的な問題が発生してきており、言葉が通じないことで彼女が、またサキネもクルド人であるということが発覚します。
また服装や髪にシラミがいたことなどから、ここに到るまでひどい生活環境で過ごしてきたことが予想されました。
当然ルファトの家には一人息子の子供の頃の服しか残っておらず、服を買いに行くことにします。
注目のシーンは次のパートです。
買物のシーンの冒頭、服を選んでいる最中、彼女の黄色い靴からブルーのコーデュロイパンツ、赤いニットと下から上へと全身を写します。
そしてその直後、これまで無表情か不機嫌な表情でしかなかったヘジャルが、すこし嬉しそうな表情を浮かべています。
この黄色い靴はプレーントゥにステッチダウンのように見せるパーツの付いた、子供用にしてはすこし重そうで、通常よりも頑丈そうに見えます。
この直後にルファトがヘジャルを警察へ連れて行こうと考えていたことを考慮すると、その以後も長く使えるようなものを、と考えたのではないかと推測されます。
また黄色は警戒色です。
言動が予測不可能なヘジャルであったからこそ、ルファトは遠くからでも視認できるよう、あえてその色を選んだのではないかとも考えられます。
そのように考えると全身の派手な色のコーディネートもそのように認識出来るようにおもいます。
いずれにしてもエブドゥに連れられていた時から履いていた長靴ではなく、その黄色い靴を以後のある地点まで履き続けているところを見ると、ヘジャルはその靴をいたく気に入っていたようです。
以後彼らはすこしづつではあるものの、打ち解けていきます。
ルファトはヘジャルを色々なところへ連れ出し、ヘジャルはゆっくりではあるもののトルコ語の単語を覚えて行きます。
しかしヘジャルの影響でむしろ変化があったのはルファトのほうであったようでした。
ヘジャルが現れたことで、自らクルド語を学んだり、食事を用意したり、固くなっていた彼の心はヘジャルの存在によって温められ柔らかくなっていく様子が丁寧に描かれてゆきます。
そして遂にはヘジャルを養子に迎え入れようと決意した直後に、親戚の死を知ったエブドゥが現れ、話はある方向へ一気に進むことになります。
映画冒頭からヘジャルが履いていた靴とは?
そしてルファトに服を贈ってもらったヘジャルが最後に選んだ靴とは?
トルコ特有の文化的な背景を持ちつつも、誰しもが共感する心が通じ合っていく普遍的で幸福な過程を、静かに丁寧に描いた本作。
日本人にはなじみの薄い特徴的な音楽と、足下の変化と汚れ方の差異の意味など共に、是非ご鑑賞ください。