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散歩

 私は、こうやって、よく散歩に出かける。
 この時期になると暑くなって来て、熱中症やら何やらいろいろと気をつけないといけないことが増えるけれども、それでも汗だくになりながら歩くのは、また気持ちが良いものである。
 今日、私は小岩へ向かっていた。
 自宅から小岩、それから新小岩をぐるっと回ろうと思っている。調べたところ、自宅から小岩までは約1時間、小岩から新小岩まで約40分、新小岩駅から自宅までは40分、合計で約2時間半程度の道のりだった。
 おそらく途中で疲れてしまって、どこか適当なカフェなどに入ると思われるので、きっと再び自宅へ辿り着くのには3時間とか4時間かかるだろうというのは予測される。
 やはり少し暑いな、と思いながら私はペットボトルの水をグビグビと喉に流し込んだ。
 この場所に引っ越してきてから半月ほどが経った。以前散歩をした時は反対方向の葛西まで向かった。最果ての、葛西臨海公園まで行ったのだが、そこでぱったりと体力が尽きてしまい、そこから出ているバスに乗って帰宅をしたことを覚えている。ただ、ただひたすらに真っ直ぐ歩いていくだけだったのだが、楽しい発見もあった。
 例えば、葛西の駅には『地下鉄博物館』なるものがある。私は興味を惹かれ、安い入場料を支払って中へ入ってみたのだが、それが大当たりだった。中に入ってすぐ、車両の等身大のレプリカがあった。現在動いている車両と、なんともレトロな地下鉄開通当時のものである。中には人形が楽し気に座っている。「なかなか、快適そうじゃないか」と思う。
 それからブースを移ると、地下鉄の歴史の説明スペースで、そこから、また移ると今度は現在の地下鉄の仕組みの説明をするスペースになっている。そこがなんとも面白い。なんと、体験が出来るのだ。パンタグラフを動かしたり、乗車体験をしたり。さすがに私はいい大人で、楽しげに操作をする子供たちに割って入ることはできなかったが、それでも見ているだけで微笑ましかったし、何故か私も楽しいような気分になってきたのだった。
 今日は、地下鉄博物館とは真逆の方向に進む。
 スマートフォンの地図アプリを確認すると、小岩の駅まではしばらく真っ直ぐのようだった。
 先日購入したばかりの真新しいアディダスのスニーカーは、新しい割には足に良くなじんでいるような気がする。
 大きな通りの両側には、駐車場のあるような、それなりに大きな店舗が並んでいる。確かにここは、東京23区のはずで、私の住む家の住所もちゃんと江戸川区となっているはずだ。それなのに、やはり東京も東の外れともなると、高いビルなんかとは無縁になっていくのか。私の最寄駅付近のビルにも、都心に見られるようなオシャレなテナントなんてなくって、パチンコ店とスーパーと、あとは生活感溢れるオリジン弁当とかサイゼリヤとか、そういうチェーン店があるだけだ。
 せっかくだから、途中まで川原を歩いてみようかと思った。
 ちょっとだけ遠回りになるけれども、大した距離ではない。それに、すぐにまた元の道路に戻らないでそのまま川原を歩き続けると、全く別の場所に連れられていってしまう。
 川原は昨日の雨で少し湿っていた。近くに屋形船の屋台があって、おそらく個人所有であろう沢山の船が止まっている。そこまで広くはない川原。犬を散歩しているおじさんがいる。ガルフィーのスウェットを着て坊主頭のイカツイ見た目に似合わず、連れているのはあまりに可愛らしいチワワだ。溺愛しているようで、たまに赤ちゃん言葉で何やら話しかけている。その様子がおかしくって吹き出しそうになったが、すれ違いざまに吹き出してしまっては失礼だろうと頑張って耐えた。それに、あんな強面なおじさんを笑ってしまって、絡まれてしまってはかなわない。
 少し歩いたが、どうやら工事中らしく、すぐに行き止まりになった。ほんの少ししか川のそばを歩いていないのに、また、元の道に戻される。少しだけ不満だったがしょうがなかった。
 元の道に出ると、大きな通りの交差点だった。
 一つの角に和風ファミリーレストランがあって、反対の角はどうやら畑のようだった。
 まさか、東京に畑があるとは。話には聞いたことがある。でも、それは23区ではなくて、多摩市とかもっと西側の郊外の話だとばかり思っていた。ああ、たしかに練馬大根というものを聞いたことがある。たしかに練馬区は23区だ。それを考えると、ここらへんに畑があっても何もおかしくはないではないか。
 私の田舎ほどではないものの、割と広い面積を誇る畑の真ん中には、ここらへんでは珍しいくらいに立派な古い屋敷が建っていた。この程度の屋敷は地元だと、まあ普通くらいなのだが、でもここは東京だ。東京でこの土地の面積を持っていて、ここまで広い家に住んでいる。もしかしたら地主なのかもしれないと思った。
 思わず家の周りを一周してみる。当たり前だけど、高い塀で囲まれていて中は見えない。僅かに見える窓枠は古いもので、純和風の建築物なのにどこかモダンな印象を与える。家の中から微かに人の気配がする。入り口には、真っ青なBMWとスバルのインプレッサが置かれていた。二世帯、いや、もしかしたらもっと多くの家族が住んでいるのかもしれない。
 --他人の家をあれこれ詮索するのはあまり良くないな。
 今更私は思って、通りに戻った。
 それからは、あまり面白くはない道のりだった。
 興味を引くようなものが殆どない道のり。住宅が並んで、たまに医院のようなものがあって。それだけ。通りの真ん中は高架になっていて、その下が運動できる小さな公園のようになっていたけれども、時間帯のせいなのか殆ど誰もいなかった。一組、3歳くらいの幼い子供連れの親子がいただけである。
 日差しは容赦なく照り付けて、汗が滝のように流れる。日焼け止めはしっかりと塗ってきたはずなのに、じりじりと炙られた肌が痛かった。バッグがら水を取り出して、喉に流し込むと身体中に再びパワーか漲ってくるような感じがする。
 あと、半分くらいだ。と思った。
 あと20分程度歩けば、小岩の駅に到着する。スマートフォンの地図アプリにもそう表示されていた。

 --まだ、半分しか歩いていないのか。

 20分。新宿だと、だいたい新宿駅の東口から新宿御苑まで歩いたくらいだろうか。もしかしたら、もうちょっと遠くまでいけるかもしれない。
 たかがそれだけの距離だ。あっという間の距離じゃないか。それなのに、なんでこんなにも徒労感を感じるのだろうか。この焼けつくような日差しのせいだろうか。
 いや、きっと違う。
 この町にはあまりにも何もなさすぎるのだ。
 新宿はどこを見ても高いビルが並んでいて、沢山のテナントが入っていて、人がどこからともなく湧いて出て、情報があまりにも多いために、それを処理しながら歩いているから時間が経つのが早いのだ。
 それに比べてこの町は何もない。人も歩いていない。私の田舎に比べたら、そりゃあすれ違う人はとても多いことには多いのだが、それが東京となると話は違う。みんな日中は都心部に仕事へ出ているのだろう、閑散としている。
 しばらく歩くと、再び街中に出た。それでも、やはり人は少ない。しばらく住宅街が続いて、川を渡ると、少しだけ商店が増えてきたように思う。少なくともコンビニは目につくようになった。飲食店もちらほらあるし、とても美味しそうなパティスリーも見つけた(とても美味しそうではあるけれども、この炎天下、これからの行程を考えるとどうしても買うことは出来なかったのだが)。
 だんだん人が増えて来たように思えてきて、私は角を曲がる。すると、そこには商店街があった。
 そうだ。東京の少し大きい駅の周りには大抵商店街があるものだ。駅が近いのだ。
 商店街を進むにつれて人が増えていく。
 そろそろ休憩時だな、と思った。時計もそろそろお昼を周りそうである。
 それにしても目ぼしい店が殆どない商店街である。整体にスーパーに信用金庫に。よくわからない金物屋があって、お年寄り向けの洋服店がある。シャッターも目立つ。若者が行くような店にそもそもあまり興味が無いので、お年寄り向けの店しかなかろうが、それはそれで構わないのだが、困ったことに飲食店が少なかった。
 少しして、ラーメン店を見つけたものの気分はラーメンではなかった。今私は無性にアイスコーヒーを飲みたい。
 小岩駅は駅の両側に商店街があって、たしか向こう側の商店街にはそれなりに飲食店があったような気がした。向こうの商店街には二、三回立ち寄ったことがあるのだが、こちらよりも栄えていたような記憶がある。まあ、ただ記憶であるので、もしかしたらどっこいどっこいかもしれない。
 アーケードで日差しこそ遮られてるものの、暑さは変わらない。日陰に入ったところで、風は熱風でゴリゴリと体力を削っていく。「休憩がしたい。アイスコーヒーが飲みたい」と思ったら、何かの糸が解けたようで、体力の消耗が著しいように思えた。たった7分程度の時間がとてつもなくしんどい。
 ぜいぜい言いながら歩いた。
 歩いている間に運良く、喫茶店が見つかった。
 喫茶店は割と混んでいた。カウンターがあって、テーブル席が一つ、二つ…七席もある。以前分煙だったらしく、奥の席はガラスで区切られている。少し緩めなかかったエアコンは、入った瞬間は少し暑いと感じたけれども、長時間いる分にはちょうど良さげだろう。常連さんと思しき女性が、カウンターの中の男性と親しげに話をしている。私が通された席の隣では、日雇いらしい男性2人が仕事の話をしながら、ランチのサンドイッチに舌鼓を打っている。男性たちから少しだけツンとした汗の臭いがして、私は急に自分の臭いが気になり始めたが、店に入ってしまった以上、背に腹は変えられなかった。
 私はアイスコーヒーと、ケーキセットを頼んだ。少し年配のウェイトレスが二、三回聞き返しながら注文をとっていく。
 本を読みながら10分くらい待って、注文した品がテーブルまで届いた。私は早速アイスコーヒーに口をつけ。カラカラと氷が涼しげな音を立てる。
 少し酸味のある、それでいて芳醇な香りのコーヒー。
 私はコーヒーの種類には詳しくない。みんなが美味しくないと言うスターバックスのコーヒーすら、私には美味しく感じる。だから、これが何の豆を使っているのかなんて全くわからない。
 それでも、私はこのコーヒーが生まれてから一番美味しい飲み物のように感じた。
 アイスコーヒーで心と身体の両方が満たされたような気になった。
 あと、新小岩まで20分程度。暑いけれども、少しまた頑張って歩いて行こう、と思えた。

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