「政治活動」は「学術」や「アート」ではないし、「学問の自由」は公費で活動できる権利の保障ではない 日本学術会議への人事介入への抗議の動きについて
自分は学問が大好きだし、その価値を良く理解していると思うし、学問に身を捧げるような研究者の立場は社会が守るべきだと思うし、それが人類の文明、特に科学技術力の源泉になると思っています。
日本国内の理系の学者の活動、たとえば数学の望月新一教授もそうだし、その他逐一お名前を列挙はしないけれど物理学者、化学者、生物学者のご活躍は世界に誇れるものであり、その生き様、人柄も含めて多大な尊敬の念を抱くことがとても多いです。
翻って、人文系の学者の活動、まあ自分が知るのは大方こういうニュースで騒動になるような事象の経由でしかないのですが、毎度ろくでもないな、なんでこんなもので生活できているのだろう?一体何の価値を社会にもたらしているのだろうか?と甚だ疑念を抱くことがとても多いです。
「なんであんたの政治活動に延々と公金をつぎ込む必要があるのか?」「それって学問と言えるんですか?」
端的にはそういうことです。
自分は特に理系学問に愛着があるだけに、客観性を著しく欠落した社会科学の正当性には常に懐疑的です。色々緩すぎると。もちろん哲学を始め科学的に反証不可能なものでもその俯瞰的知見は大いに役立つのだけど、社会科学、人文系の学者がこれみよがしに「学術」であるとか「理論」とか言ってるのを見ると、おいおいちょっと待てよ?(苦笑。。。となるのが率直な感想です。
社会運動家、政治活動家として著名な上野千鶴子氏が東京大学名誉教授という社会的ポジションに収まっているような事実は我が国の汚点だと考えるし、個人のイデオロギーに基づく社会運動、政治活動と客観的学問とは全く違うし、氏のWikipediaで記載されている批判を引用すると、
「研究者として社会運動家のように行動するのは詐欺」
であると自分は思います。人文系の「学者」「研究者」はこの手の人間ばかりが目に付きます。
こういう社会構造は悪しき既得権益であり、悪しき特権階層であり、真の学問の社会的価値を愚弄し、社会的に損失でしかないと考えます。
学問の自由、言論の自由?どうぞご自由に。今どきこういうSNSでもYouTubeでもなんでも発表の場もあるでしょう。収益化ですら可能な時代だ。
学問について崇高な理念を社会がサポートしてくれるのを良いことにアカデミックなポジションに汲々として、ましてや公費でサポートされながら政治活動をするなどという世間の常識とはかけ離れた娯楽に興じる、さらに学生相手にイデオロギーの講義をする、こういうのは今のタイミングで社会がしっかりと検証して廃止して良いと考えます。
菅総理は自民党新総裁就任時の会見で「役所の縦割り、既得権益、前例主義を打倒し、規制改革をしっかり進めたい」と宣言されていました。
この一連の政治活動への公金の拠出について前例を踏襲しない、既得権益、不当な特権を認めないとこれだけ堂々と切り込んだのは立派な政治家だな、と感じました。
「研究者として(公金で)社会運動家のように行動するのは詐欺」
これは学問への愚弄ですが、
「アートと称して(公金で)政治活動をするのは詐欺」
という、あいちトリエンナーレもありましたね。アートへの愚弄です。
パターンは全く同じです。
人類が崇高な概念理念としているなにか、「学問」であったり「アート」であったり、「学問の自由」「言論の自由」「表現の自由」という概念理念を自身の社会活動、政治活動に悪用するわけですね。
公金(税金)を使う、というのは一種の社会へのマウンティングとして機能します。お墨付きがあると権威主義的に悪用もされます。
つまり、本来は学者(科学者)からの客観的で科学的な知見を政治に有効に活用したい、社会の文化向上に役立てたいという趣旨で公金(税金)を投入する意義があるのに、それが既得権益、権威化され、自分ら学者が推薦する人間からの政治的提議なんだからありがたく政策に反映させろ、公費の器での国際芸術祭でも展示された作品である、そこに意義がある、みたいな政治的イデオロギーのマウンティングを開始されるわけです。
言い忘れていました、東京弁護士会による政治的提言っていうのもそうですね。あれもごく一部の左翼的政治活動家が同時に弁護士でもあり、そんな政治活動なんて興味のない大方の弁護士の総会への欠席委任を悪用して、個人的なイデオロギーを弁護士会という組織の権威として転嫁する悪用をしているわけです。
こういう特権、既得権益を封じられたり牽制されそうになると、かならず「学問の自由」「言論の自由」「表現の自由」への侵害だ、と反発してきます。
我々はこういう欺瞞に騙されるべきではないし、個人的にはこの菅総理による英断を全力で支持したいです。この人はすごい。