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「跳び箱について」(得手不得手を除外して解釈してみる)

小学校の体育の授業で「跳び箱」をやったのを思い出した。
まぁ、ある種、このような事案を成績として数値化するのも滑稽なんだと思っているんだけれど・・・・

だから、それ以外の部分を思い出して整理してみた。

あれって「何だったのか???」
それも後で書くからいいんじゃないかと。

・跳び箱に向かうとき、僕は体育館のあるラインのところに立っている。
・次に走り出す。
・そして、ジャンプ台みたいな踏切台に軽く足を置く。
・飛ぶ。
・何かに(跳び箱の上)手を軽くつく。
・そのまま、跳び箱がなかったかのように着地する。

ざっくり、こんな順番だと思う。
この時、この書き方でおおざっぱにわかってしまうと思うんだけれど、「跳び箱」の存在なんて、たいして気にしていないってこと。気にするほど、飛べない。
そんなものは「別の何かに置き換えるか無いものと思っていた気配がある」

つまり、そんなものはどうでもいい。

「その時に、跳び箱を前に、僕は何がしたかったか???」

ってのを、小学生のころのなんとなしの記憶をたどると、わかる。大人にならないと言語化できない事は、とても多いのだ。

「単純に、高く、遠くに飛びたい」だけだ。跳び箱はたまたま、「その動機」にしかならない。

もっと言えば、日常的に外で走り回ったり、泥にまみれたり、校庭でキャッチボールをしたり、サッカーボールと戯れたり、その延長にすぎないんだよね。

それ以前に、こどもっていうのは、そういう走り回ったり、秘密基地だったり、彼らなりのプロトコルで、前に進もうとしたり、危険をを察知して逃げ込んだりする「場所」を知っていたし、その中でバランスをとっていたんだろうと思う。

その一部を切り出して、体育の授業を捉えていたんだと思う。

跳び箱だけじゃないけれど、日常の事なので、得手不得手もそれぞれだけれど、跳び箱みたいな象徴的な「遊戯」について、それを捉えるときに大抵は「なぜできないか?」ってのが、メインテーマに上がるのだけれど、そんなのはある程度どうでもいいんだろう。

ちょっとコツがあるのは確かなので、そこをつつく事は教師も知っているだろうし、それ以上に無理をするのは少々野蛮なんだと思う。
なぜなら、大抵はそれ以前の日常に由来するから。
日常からやっている事の延長にそれがあるから、できる事だったりするケースは多いようだ。だからできにくい事も多い。日常はそれぞれ異なるので押し付ける意味があまりない。

【話の切り口を少し変化させる】

困ったのは、最近聞いた「放課後に校庭は閉鎖」しているという「時代性」
ここまで、やりにくい事になっているのか???と、正直に言えば驚く。

特に、都市部のこどもにはそれが最後の砦みたいな部分もあるから、そこを閉鎖しちゃったら、どこで「本質」の一部を体験して会得したらいいのか?
困ったなぁと、思うんだよね。しかし、この治安だしねぇ。時代性。


懐かしいとか、

どうでもいいんだけれど、非常に効率が悪い。


ヒトの基盤って、都市の自然でもいいんだけれど、そのヒトの根本的な「歩く」「走る」「ジャンプしてみる」「くぐる」とか、欲張って言えば、他の種である「犬」「猫」「鳥」「昆虫」との接点だったりする。

それがあまりに少ないと、どうなるんだろう?


効率っていうのは、自然由来の地盤が強く作用して「効果的に効率性」が発揮されると思う。

僕の場合、大人になってからは主に営業やマーケティングの一部、接客なんかがメインのビジネスだったのだけれど、相対する「ヒト」がある程度の「納得」を感じて、初めて物事が進んだり成立したりするものだから、論理だけで作られた提案書や、そのプレゼンから発せられる「声音」やその「音量」「身振り」「熱量」も含めて、判断になるじゃないですか。

それは「効率」なんで、「そこを省いても効率は良くならないのだから」

結局さらに遠回りをして、ツケを後で払うってことは結構多いのだ。


ビジネスも効率というときに「跳び箱」の体育の授業とあまり変わらない。


日常の基盤の上になりたっているので、それ次第じゃないかなぁというだけなんですよ。

AI、どう使うか?これも体験の基盤。
IT、理解できるかも結構体験。
DX、同じ。
マイナンバー???机上の空論だから、かなり遠回りするだろう。
マイナ保険証。これは強制装置だから、儒教圏以外では即座に廃棄されるだろう。ここだから、まだ10パーセント強のひとが(たった・・・)支持するだけだ。

ショートカットできるには、地に足がついてないとできない事が多い。

それをどう、確保しなおすか?って、意外と忘れ去られているようにも思う。


さらに転じて【どんな判断で展覧会の観る見ないを決めているか?】ってことに触れたい。

以前、書いたけれど、福岡伸一氏の原体験は「蝶の不思議さかな?」に魅せられて、それを追いかけては自然の中に入っていったという「自然への原体験」があるから、その基盤が強固なんだろうと思われる。
そういうのは展示でうまくいっているかどうかは見ないとわからないけれど、見てみる価値があると思う。そうでないと、大抵机上の空論か、もはや活力を失った古典芸能の陳列を確認するだけで終わってしまいがちだから。

だから、この「火の鳥」の展覧会はとりあえず見に行きたい。同じ会場のルイーズ・ブルジョワは、あまりに心臓に悪いから僕は遠慮しておく。
森美術館はたまにそういうのをやる事があって、よくわからない。下記に引用した「Chim!Pom」の展覧会も、新しい切り口は「公共」の部分だけだったし、あとは従来の価値観を揺さぶるまでいかなかった「再定義」みたいなものだったからね。「公共」のコーナーの展示は良かった!これね。

傾向として、森美術館はそういう展示をしたがると、僕は認識してしまっている。
しかし、その今ある自分の感じ方も、しばらくしたら変化すると何となく予想している。固定化したときに何かが終わる気がするから。
安定は長期で見れば衰退であることは、昔から言われている事なので。

話が、「跳び箱」から「観る展示」までやってしまった・・・・でも言いたいことは、同じなんだけれど・・・

ついでに、学生時代に読んでおけばよかったと思うのが「ヘルマン・ヘッセ」の「シッダールタ」50歳になって初めて読んでいるけれど、これもいい塩梅で読めると思う。では、朝早く起きちゃったので、書いてみた。

あと、要注意なんは「僕みたいな年齢層」のおっさんになっていくほど、「屁理屈」つまり「体験談を含まない机上の空論や倫理観の押し付け」にまみれがちなので、僕もそうかもしれないし、他にそういう記述があれば完全に視界に入れていない。一度読んで、次にタイトルをみて「あ、同じ感じだ」って、判断でもう読まなくなっちゃう。。。。別にいいんだけれど、読んで怒り出す人もいるから・・・

戯言って自己紹介のブロックに書いてあるっしょ。戯言相手にマジになっても仕方ないでしょう、ねぇ。

※冒頭の教室のイメージは、noteの仕様によってお借りしました。ありがとうございます<(_ _)>

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