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日常の都市景観

ほんとうに都市ってやつは厄介なもんだ。

都市景観といっても、おそらく、こんな感じの言い回しが写真に見えてくるように感じてた。
写真は、日常を切り出しても「その意図のすべて以外の事柄」を写しこんでいるのが面白いところだろうと思う。
写真でなければ肉眼で歩くスピードで認識できる「違和感や何かの雰囲気の正体」を確認することは難しい。静止画の大きな特徴のひとつは、そういうものだろうと確認できるのだ。

都市というところは、必要に迫られて集まった色々な背景を持ったひとびとが残したさまざまな痕跡などが残っていくし、それが何か人工的でもあり、自然の営みのようでもあり、その空間自体が「人工物という自然と加工された何か」のまじりあいで、その内実をそれぞれの写り込んだ部分部分が語りだす、そんなものを再発見できることが、都市景観の写真を見るときに楽しみのひとつになる。

しかし、この10年くらいの都市化の方向性は、とりあえず「縦長」で「デザイン」も「素材」も同じ、都内の再開発地域の駅前はどこにいっても「同じ街」、太陽を遮る高さのビルからの反射光があちらこちらに分散して、自分の影は「おー、8方向に影ができてるぞ♪」みたいな感じになっている。つまり、方向感覚がおかしくなったりする。

地下空間は、そもそも、相当の空間認知能力がないと地上と「どうつながっているか」わからない。そして、大まかに言えば、「谷」という「谷」に、わざわざ地下の広大な空間を作る。水がたまるじゃん。都市は元々自然災害に虚弱なのだけれど、それを拡大してるし、本能的な感覚がマヒしそうだ。

さらに最も困ったことは、都市の再形成が「スクラップ&ビルド」(すべて更地にして、その土地が何者であったか?という要素をすべて忘れさせてしまい、その上に、人間性を否定する土地空間を構築する)というような発想で、成されていく。
それが、現代の開発の特徴的で、結果、無機質なものの寄せ集めで土地自体を上書きしていく事に見られるように見える。
つまり、土地の連続性を断ち切る「都市の再開発計画思想」が、なかなか「人間の存在」というような「ヒト」の種としての連続性を元来否定しているあたりが、少々受け入れにくいのだ。


まぁ、詮無きことは置いておくとして・・・・

そんなのは、写真を撮っているとき、というより「歩行」しているときには、全く考えない。
カメラは手にもっているけれど、足に任せて、ふらふらと曇り空の(または小雨の)23区を歩いて、なんか「あれ?」って感じたところをカメラ出して撮る。なんもないところを撮る。

最初のころは、狙って撮ってたものをぜーんぶ辞めた。それは、ビジネスの写真でやるのでいいのだ。

そんな感じで、休日モードから入れ替えの朝だったりする。おはよう♪

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